しかし・・・河田次郎の裏切りに遭い、殺害されました。
これにより、清衡・基衡・秀衡・泰衡と約100年にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡します。
※「征伐」という言葉について反感を抱く方もいらっしゃると思われますが、「征伐」とは「正当な戦い」という意味ではありません。
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~源義経を自刃に追い込んだ泰衡~
1185年(文治元年)10月18日、源義経は、頼朝追討の宣旨を得ますが、義経に味方する者は思うように集まりませんでした。
11月3日、義経は都落ちし、11月6日、大物浦から西国に逃れようとしますが、暴風により難破してしまいます。
その後行方をくらました義経ですが、最後は奥州藤原秀衡を頼りました。義経が平泉に入ったのは、1187年(文治3年)の春頃ではないかといわれています。
しかし、その年の10月29日、秀衡が亡くなります。
秀衡のあとを継いだのが泰衡でした。
秀衡は、
「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」
と遺言していたといいますが、
泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込みます。
泰衡は、義経の首を頼朝に差し出せば、頼朝との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・
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~源頼朝・・・奥州征伐へ出陣~
1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に鎌倉を出発します。
頼朝は、義経を匿う「泰衡追討の宣旨」を要求していましたが、泰衡が義経を討ったことによって、その大義名分が失われてしまいます。
そのため、朝廷は宣旨の発給を渋っていました。
しかし、頼朝は、大庭景義の
「軍中は将軍の命を聞き、天子の詔を聞かず・・・」
という進言を受け入れ、総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発しています。
頼朝にとってみれば、命令が及ばない地は奥州のみとなっていました。
すでに義経の事は関係なく、ただ奥州を制圧することのみが目的となっていたのです。
8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山が頼朝軍に破られると、その報を受けた泰衡は、平泉館を焼き払い逃亡しています。
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~泰衡から頼朝への手紙(助命嘆願)~
8月26日、泰衡は、頼朝に手紙を出しています。
その内容は・・・
「義経のことは、父秀衡が保護していたもので、
私は全くその事の始まりがわかりません。
父の死後、ご命令のとおり義経を討ちました。
これは勲功というべきではないでしょうか。
そうであるのに、
罪のないにも拘わらず、征伐されるというのはどういうことでしょう。
そのため、
先祖代々の在所を去って、山林をさまよい、難儀しております。
陸奥・出羽の両国は、すでに沙汰されているのですから、
泰衡についてはお許し頂き、御家人に列して頂きたいと思います。
さもなくば、死罪を減じていただき遠流にしてください。
もし御慈悲によって返答下さるのならば、比内郡辺りに置いてください。
その是非によっては帰還して参じたいと思います。」
という助命嘆願でした。
頼朝は、これを受け容れず、比内郡内の探索を命じています。
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~奥州藤原氏の滅亡~
そして、9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。
(参考:奥州平泉の発展と藤原清衡)
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~先祖源頼義の故実と奥州合戦~
この頼朝の奥州での合戦は、祖先源頼義の「前九年の役」の再現だったともいわれています。
出陣前の7月8日、千葉常胤は、新調した旗二幅を献上しています。
この旗は、頼義の旗の寸法と同じで、上方に伊勢大神宮と八幡大菩薩、下方に向かい合った鳩2羽が刺繍されていたそうです。
この旗の絹を調達したのは、小山朝政でした。
これは、朝政の祖先藤原秀郷が、容易に朝敵を滅ぼしたという謂われからのことだといいます。
9月6日、泰衡を討った河田次郎が、泰衡の首を持参します。
頼朝は、その首を、前九年の役で、頼義が安倍貞任の首を「釘で打ち付けて晒した」のと同じように、8寸釘で泰衡の首を打ち付け、晒し首にしたといいます。
泰衡の首を持ってきた河田次郎は・・・
「先祖代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪にあたる」
として、斬罪に処せられています。
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その後、泰衡の首は、父祖の眠る中尊寺金色堂に納められました。
中尊寺大池のハスは、泰衡の首桶から発見されたハスの種が発芽したものなのだそうです。
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(復元図)
頼朝は奥州征伐後、義経と奥州藤原氏の霊を鎮めるため、鎌倉に永福寺を建立しています。
平泉で見た寺院を模した壮大な寺院だったのだと伝えられています。