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一条天皇の遺詠歌~藤原定子の遺詠歌と源氏物語~

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1000年(長保2年)12月16日、 一条天皇 は愛する皇后宮・ 藤原定子 を亡くしました。 それから11年後の1011年(寛弘8年)、病となった一条天皇は6月22日に崩御。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『栄花物語』 によると、 一条天皇 は崩御の3日前に出家。 露の身の 仮の宿りに 君を置きて 家を出でぬる ことぞ悲しき と詠んだのだといいます。 「露のようにはかない身がかりそめに宿る現世に、あなたを残して出家してしまう事は悲しい」 歌の中の「君」とは、中宮の 藤原彰子 のことと考えられますが・・・ 寵愛した 定子 のことという説も。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『栄花物語』 によると、 定子 は三首の歌を遺しました。 そのうちの一つが 煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ という歌。 「煙とも雲ともならない我が身ですが、草の葉の露を我が身と思って下さい」 一条天皇 が詠んだ歌は、 定子 の歌に対応したものだったのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『源氏物語』 ~賢木の巻~で 光源氏 は 浅茅生の 露のやどりに 君をおきて 四方の嵐ぞ 静心なき という歌を 紫の上 に贈りました。 「浅茅生に置く露のようにはかないこの世にあなたを置いてきたので まわりから吹きつける世間の激しい風を聞くにつけ、気ががりでなりません」 紫の上 はこう返しました。 風吹けば まづぞ乱るる 色変はる 浅茅が露に かかるささがに 「風が吹くとまっ先に乱れて色変わりするはかない浅茅生の露の上に、糸をかけてそれを頼りに生きている蜘蛛のようなわたしですから」 一条天皇 は、辞世の歌を詠むにあたって 『源氏物語』 を参考にしたのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

土葬を望んでいた一条天皇、しかし火葬に。

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1011年(寛弘8年)6月22日、 一条天皇 が崩御。 生前、 一条天皇 は土葬を望み、父の円融天皇の御陵( 円融天皇 後村上陵 )の近くに葬られることを望んでいたのだといいます。 しかし・・・ 藤原道長 は火葬にしてしまいました。 一条天皇火葬塚 一条天皇 は左大文字山の山蔭で火葬され、遺骨は東山の円成寺に安置されました。 その後、金輪寺に埋葬する予定でしたが・・・ 道長 が 一条天皇 の言葉を思い出したため・・・ そのまま円成寺に安置し、三年後に 円融天皇 の御陵あたりに埋葬することとなったのだといいます。 何故三年後なのか? 西方に大将軍があったため。 大将軍(金星の精)のいる所は万事にとって凶で、同じ方位に三年間留まるらしい。 そのため、三年塞がりの大将軍と呼ばれるのだとか。 一条天皇 円融寺北陵 しかし、遺骨が望みのとおり 円融天皇の御陵 の近くに埋葬されたのは、崩御後9年経った1020年(寛仁4年)6月16日のことでした。 📎一条天皇の火葬と埋葬 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 定子鳥戸野陵 1000年(長保2年)12月16日に崩御した 一条天皇 の皇后・ 藤原定子 が葬られたのは 鳥戸野陵 。 本人の望みにより土葬とされました。 もしかしたら 一条天皇 は、 定子 と同じように葬られたかったのかも。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

萬福寺の法堂・大雄宝殿・天王殿が国宝に。~京都宇治~

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2024年(令和6年)10月18日、文化審議会は宇治の 萬福寺 の 法堂 ・ 大雄宝殿 ・ 天王殿 を国宝とする答申をしました。 萬福寺 は禅宗の一派・黄檗宗(おうばく)の大本山。 中国明の僧・ 隠元隆琦 が開いた寺で、明朝禅を今に伝えています。 法堂 法堂 (はっとう)は、説法をする場所。 大雄宝殿 大雄宝殿 (だいゆうほうでん) は本堂。 本尊は釈迦如来坐像(脇侍は迦葉と阿難)。 左右には十八羅漢、背後には開山隠元隆琦の像が安置されています。 天王殿 天王殿 には 都七福神 の一つ布袋尊像が安置されています。 左右には四天王像、背後には韋駄天像。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 回廊 萬福寺 の伽藍様式は明朝風。 三門 、 天王殿 、 大雄宝殿 、 法堂 が一直線に並び、その左右には諸堂が整然と配置され、全てが 回廊 で結ばれています。 萬福寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて!

今日から湘南キャンドル~江の島~

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湘南キャンドル は、10000基のろうそくに火が灯される幻想的なイベント。 11月4日(月祝)まで 江の島サムエルコッキング苑 で開催されます。 点灯時間:17:00~20:00 土日祝日は21:00まで (最終入場 19:30) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆