(長野県木曽町)
木曽義仲は源義賢の次男。
1154年(久寿元年)、武蔵国比企郡の大蔵館で誕生します。
しかし、翌年、父の義賢が源義朝の長男・義平(頼朝の異母兄)に滅ぼされると、幼い義仲は、乳母夫の中原兼遠に連れられ、信州の木曽で育てられます。
旗挙八幡宮は、木曽で育った木曽義仲が京都の石清水八幡宮を勧請して建立したという神社。
神社周辺が義仲の館だったのだと伝えられています。
木曽で成人した義仲には、平家を征伐して家を興したいという考えがあったようです。
(木曽町:義仲館)
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1180年(治承4年)4月、以仁王の平家打倒の令旨が発せられると、8月には源頼朝が挙兵。
義仲はすぐに参陣しようと思ったようですが・・・
9月7日、小笠原頼直が義仲討伐のため木曽侵攻を企てます。
それを察した村山義直と栗田寺別当・大法師範覚が出陣し、信濃国市原で合戦が始まりました。
合戦は日暮れまで続きますが、村山義直の矢が尽きてしまいます。
村山義直からの援軍要請を受けた義仲は、大軍を率いて助勢に駆けつけます。
その威勢に怖れをなした小笠原頼直は、城長茂を頼って越後国へ逃げて行ったのだといいます。
※この合戦が史料でみることのできる義仲が関与した最初の戦いです。
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