『吾妻鏡』によると・・・
1219年(建保7年)正月27日、源実朝を暗殺した公暁は、山越えをして三浦義村の屋敷へ向かいますが・・・
義村は長尾定景に公暁を討つよう命じます。
公暁を討った定景は、その首を北条義時の屋敷に運んだのだといいます。
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長尾定景は鎌倉郡長尾庄(現在の横浜市戸塚区)を本拠とした武将。
1180年(治承4年)、伊豆で源頼朝が挙兵すると、定景は大庭景親につき、石橋山の戦いでは岡崎義実の子佐奈田与一義忠を討ち取る活躍をしています。
しかし、頼朝が鎌倉に入ると形勢は逆転し、大庭景親とともに捕らえられてしまいます。
景親は処刑されますが・・・
定景は三浦義澄に預けられた後、岡崎義実に引き渡されました・・・
ただ・・・
義実は、毎日法華経を唱えている定景をみて、息子を殺した罪を許したのだそうです。
翌年、義実の計らいで助命された定景は、三浦の家臣として仕えることになったのだとか。
(久成寺)
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