別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年6月27日日曜日

北条政子の憤りで梟首された藤内光澄


『吾妻鏡』によると・・・

1184年(元暦元年)6月27日、北条政子の憤りから藤内光澄が梟首されました。


藤内光澄は堀親家の家臣。

この年の4月21日、源頼朝は逃亡した木曽義高を探し出して討ち取るよう堀親家に命じました。

5日後の4月26日、藤内光澄が鎌倉に戻り、義高を入間河原で誅殺したことを報告します。

このことを聞いた義高の婚約者だった頼朝と政子の娘大姫は、嘆き悲しみ、水も喉を通らなってしまいます。


藤内光澄が梟首されたのはこの事が原因。

義高の死から大姫は病の床についたままで、日毎に重くなっていました。

政子は次のように頼朝を追求しています。

「大姫の病気は義高が殺されたことが原因。

したがって、藤内光澄のせいである。

命令であったとしても、なぜ内々に詳しい事情を大姫に知らせなかったのか・・・」

言い逃れできない頼朝は、藤内光澄を梟首するよう命じたのだそうです。



清水八幡宮
(狭山市)

清水八幡宮は木曽義高を祀る社。

首を取られた義高の遺体は、里人の手によって入間河原に葬られたのだと伝えられています。


(伊豆市)

堀親家は、源頼朝伊豆国の流人だった頃からの側近。

1180年(治承4年)8月17日、頼朝の源氏再興の挙兵に参じ、山木館襲撃石橋山の戦いで活躍した武将。



木曽義高の誅殺







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