「金銅藤原道長経筒」は、1007年(寛弘4年)に御嶽詣を行った藤原道長が金峯山山頂に埋納したもの。
寛弘4年8月11日の銘があり、願文(銘文)には「南瞻部州大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長」と刻まれています。
道長の直筆かどうかは不明ですが、一説には藤原行成の筆跡とも・・・
いずれにしても、年代を明らかになっている経筒としては日本最古のもの。
道長の経筒は江戸時代に発掘されたと伝えられています。
現在は金峯神社蔵で国宝(京都国立博物館に寄託)。
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吉野の金峯山を参拝することを御嶽詣といいます。
道長は、1007年(寛弘4年)8月2日に都を発ち、8月11日に金峯山山頂に自ら書写した「法華経」・「無量義経」・「阿弥陀経」・「弥勒経」を埋納、8月14日帰京しています。
左大臣という人臣の最高の地位にいる者が、半月もの間、都を離れるというのは、当時の社会通念では考えられなかったことのようです。
では、何故、道長は御嶽詣を行ったのか?
娘で一条天皇の中宮・藤原彰子の懐妊を願ってという説もあるようですが、経筒の願文には・・・
「法華経は、釈迦の恩に報い、弥勒にめぐりあい、金峯山の蔵王権現に近づくため、
阿弥陀経は、臨終の際に心身乱れず極楽往生するため、
弥勒経は、長い間の重罪を消滅させ、慈尊(弥勒)の出世に会うために埋経した」
ということが記されています。
さらに・・・
「死後(未来)に弥勒が悟りを開いたとき、自らも金峯山に詣でて、弥勒の法華会を聴聞し、
成仏の記(確約)を受けるとき、金峯山に埋めた経が湧き出して会衆を歓喜させるため」
ということも記されているようです。
経筒の願文からすると、道長の御嶽詣は、自身の極楽往生と弥勒菩薩が人間界に現われるという信仰を基に行われたようです。
弥勒菩薩は未来の仏で、釈迦の入滅後56億7千万年後にこの世界に現われて悟りを開き、多くの人々を救済するとされています。
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園城寺(三井寺)の本尊は弥勒菩薩。
誰も拝することのできない絶対秘仏。
道長は園城寺を信仰し、金堂には道長が奉納した弥勒菩薩も祀られています。
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御嶽詣の翌年、藤原彰子が懐妊。
道長の邸宅・土御門殿では、安産祈願のために法華三十講が行われました。
法華三十講は、法華経三十巻を三十日間にわたって講ずる行事。
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法成寺は、道長が土御門殿の東側に建てた寺。
晩年を法成寺で暮らしたという道長は、1027年(万寿4年)12月4日、死去。
死期を悟った道長は、阿弥陀堂に入って九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、西方浄土を願いながら往生したのだと伝えられています。
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平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。
本尊の阿弥陀如来を造立した定朝は法成寺の造仏も行いました。
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吉野は・・・
天智天皇の後継を辞退した大海人皇子が下った地。
藤原道長が金峯山詣を行い自ら書写した経を埋納した地。
源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた地。
鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした地。
そして、後醍醐天皇が南朝を興した地。
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