(一ノ谷古戦場)
平重衡は、平清盛の五男。
南都焼討で東大寺・興福寺を焼いた武将として知られています。
1184年(寿永3年)2月7日、一の谷の戦いで捕虜となった重衡。
3月10日、源頼朝の願いにより関東に連行されるため、京都を発ち、3月27日に伊豆の国府に到着。
翌日、伊豆の北条に来ていた頼朝に対面。
「後白河法皇の怒りを慰めるため、また、亡き父義朝の仇を討つため、石橋山に挙兵して以降、平氏の反逆を平らげて、こうして面会できたことは名誉なこと。
いずれ宗盛殿ともお会いできるのでしょう」
と話す頼朝に対して重衡は、
「源平は共に朝廷を守護する者でありましたが、ある時から平家だけが朝廷を守護することになり、官職に就いた者は八十数人、その繁栄は二十数年にも及びました。
今は運尽きて捕虜となりましたが、弓馬に携わる者が、敵のために捕虜にされることは、さほど恥ずかしいことではない。
早く斬罪に処されよ」
と、はばかることもなく話したのだといいます。
伊豆の国府は現在の三嶋大社付近にあったとされています。
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4月8日、鎌倉に到着した重衡は、御所内の屋敷に入りました。
4月20日、頼朝の許しを得て、穢れを洗い流すための儀式(沐浴の儀)を行います。
夕方になると、頼朝は、藤原邦通・工藤祐経・千手の前を重衡のもとへ遣わします。
酒と肴も届けさせました。
祐経は鼓を打って今様を歌い、千手の前は琵琶を弾き、重衡は横笛を吹いて宴を楽しみました。
翌日、藤原邦通が頼朝に宴の様子を報告。
重衡の言動と芸能はとても優美なものだったと話すと、頼朝は同席しなかったことを悔いたのだといいます。
そして、千手の前に宿衣を持たせて再び重衡のもとへ遣わし、工藤祐経に「田舎の女性もまたいいものですよ。鎌倉にいる間そばにおいておきなさい」と伝言をさせたのだとか。
教恩寺の本尊・阿弥陀如来像は、頼朝が「一族の冥福を祈るように」と重衡に与えたものだと伝えられています。
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1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、重衡は南都の強い要求により、東大寺の使者に引き渡され、6月23日、木津川で処刑されます(29歳)。
千手の前は、それから3年後の1188年(文治4年)4月25日に亡くなっています。
24歳でした。
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