1180年(治承4年)、鎌倉に武家の都を創った源頼朝。
1185年(元暦2年)に平家を滅ぼし、1189年(文治5年)には奥州藤原氏を滅ぼして全国を支配下に置きました。
1190年(建久元年)、上洛して権大納言・右近衛大将に任ぜられ、1192年(建久3年)には念願の征夷大将軍に任ぜられました。
征夷大将軍となった翌1193年(建久4年)には富士裾野で大軍事演習を行っています(富士裾野の巻狩り)。
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養参列のために二度目の上洛。
ただ、この時の上洛の真の目的は、長女大姫の入内運動にあったようです。
この頃から頼朝の頭上には暗雲が立ちこめ始めていたのかもしれません。
『吾妻鏡』も1196年(建久7年)から、1199年(建久10年)に頼朝が亡くなるまでの記事を欠いています。
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(茅ヶ崎)
1198年(建久9年)12月27日、頼朝は稲毛重成が妻の供養のために架けた相模川の橋供養に参列します。
その帰路に落馬。
それが原因で翌建久10年正月13日に亡くなったのだと伝えられています。
『吾妻鏡』にも橋供養の帰りに落馬して程なく亡くなったことが記されています。
茅ヶ崎市の旧相模川橋脚は、1923年(大正12年)の関東大震災で浮かび上がってきたもので、頼朝が渡り初めをした橋の橋脚ではないかと考えられています。
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常識的に考えれば、武士が戦場でもない所で落馬するなど考えにくい事。
だとするとその理由があるはずです。
病気だったと考えるのが妥当なのかもしれませんが、各地に頼朝の落馬伝説が残されているようです。
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源義経の亡霊伝説
茅ヶ崎の伝説では、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、頼朝に滅ぼされた源義経や行家らの亡霊が現れ、驚いた馬が棒立ちとなり、落馬してしまったのだといいます。
鶴嶺八幡宮の参道にある弁慶塚は、里人が義経一族の霊を慰めるため造ったのだと伝えられています。
御霊神社は、大庭景義が先祖の鎌倉権五郎景政を祀った毘沙門堂を前身とする社で、頼朝の前に怨霊となって現れた義経が合祀されています。
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安徳天皇の亡霊伝説
鎌倉にも落馬伝説が残されています。
壇ノ浦の戦いで平家一門とともに入水し、幼くして亡くなった安徳天皇の怨霊が現れたというもの。
その場所は稲村ヶ崎。
落馬した頼朝は、供の者らに助け起こされて御所まで帰りますが、重体となってしまいます。
様々な祈祷や治療が尽くされましたが、その効果はなく・・・
1199年(建久10年)正月11日に出家。
そして、13日に逝去(享年53歳)。
頼朝の亡骸は、持仏堂に葬られました。
現在はその場所に墓塔が建てられています。
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