(愛知県美浜町・法山寺)
源義朝は河内源氏の棟梁。
父は源為義。
『平治物語』によると・・・
1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛に敗れた義朝は、再起を図るため東国を目指しますが、一緒に落ち延びたのは、源義平、源朝長、源頼朝、源重成、平賀義信、鎌田政清、金王丸の僅か八騎だったのだといいます。
(愛知県美浜町・法山寺)
東国へと逃れる途中、尾張国野間の長田忠致のもとに身を寄せた義朝でしたが・・・
1160年(平治2年)正月3日、平家の恩賞に授かりたい忠致は、入浴中の義朝を殺害しました。
義朝の郎党・鎌田政長(政清・政家)も酒の席で殺害されています。
※義朝が暗殺につては諸説あるようです。
※義朝の嫡男頼朝は、途中ではぐれてしまったため殺されずにすみました。
(愛知県美浜町・野間大坊)
襲われた義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言い残したと伝えられ、そのことから野間大坊にある義朝の墓には、木太刀が供えられています。
(愛知県美浜町・野間大坊)
義朝の首が洗われたという池。
義朝の首は、ともに殺害された鎌田政家の首とともに京へ送られ、正月9日、獄門にかけられたのだと伝えられています。
鎌田政長は義朝の第一の郎党。
母が義朝の乳母だったことから乳兄弟と呼ばれていました。
そして2人を殺害した長田忠致は政長の舅。
(愛知県美浜町)
それから30年後の1190年(建久元年)、上洛途上で野間に立ち寄った源頼朝は、忠致父子を松の木に磔にして殺害したのだと伝えられています。
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野間大坊(大御堂寺)は、源義朝の墓がある寺。
1190年(建久元年)、頼朝は上洛の途上で、父義朝の墓を訪ねます。
荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な堂が建てられ、供養が行われていることに感激したといいます。
このとき、頼朝は野間大坊の伽藍を整備し、地蔵菩薩を納めています。
大御堂寺大門は頼朝が伽藍整備をしたときの建築物だと伝えられています。
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