その第1問目は、源頼朝ではなく、子の頼家の問題でした。
1203年(建仁3)、病に倒れ、将軍職を退き、最後は幽閉先の伊豆修禅寺で暗殺された人は誰か。
1 源頼義
2 源義朝
3 源実朝
4 源頼家
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『吾妻鏡』によると・・・
1203年(建仁3年)8月27日、二代将軍源頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に譲ることが発表されます。
これに反発したのは比企能員でした。
頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父でもあった比企能員は、娘の若狭局(頼家の側室)を通じて頼家に「北条時政を追討すべきだ」と伝えます。
それを聞いた頼家は、9月2日、比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだといいます。
その密議を障子を隔てて聞いていたのが北条政子。
政子は、その事を北条時政に通報。
これを受けた時政は大江広元の支持をとりつけ、先手をうって能員を暗殺したのだといいます。
能員を暗殺したのは天野遠景と仁田忠常。
一方で、政子の命を受けた北条義時らが比企邸を攻め、比企一族を滅亡させました。
(妙本寺)
9月5日、危篤状態から奇跡的に快復して事件を知った頼家は、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じますが失敗に終わり、9月7日、病気と政治不安を理由に出家。
9月29日、頼家は伊豆国修禅寺へ流され、翌1204年(元久元年)7月18日に暗殺されました。
(修禅寺)
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