1180年(治承4年)4月27日、以仁王の発した令旨を伊豆国の北条館で受け取った源頼朝は、8月17日、源氏再興の挙兵を果たします。
伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った後、相模国の石橋山で敗れてしまいますが、真鶴から安房国へ渡って再起します。
そして、10月7日(6日とも)、大軍を率いて鎌倉に入りました。
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『吾妻鏡』によると、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされる人物はだれか
答 千葉常胤
第7回鎌倉検定試験2級
『北条九代記』によると・・・
作戦会議中に常胤が頼朝に申し上げたことは、
「今の御軍陣は敵の攻撃を防ぐのに適当な土地ではありません。
相模国の鎌倉こそ先祖が残されたすぐれた遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適しています。
陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利です。
兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのままです」
これに加えて
「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」
「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」
「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」
を申し上げ、
最後に
「将来の幸運をこの世にもたらし、先祖の名を雲の上にまで響かそうとするには、この鎌倉がまことにめでたくすばらしい土地柄です」
と申し上げたのだとか。
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大倉に居を構え、武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。
答 源頼朝
第11回鎌倉検定試験3級
1180年(治承4年)10月、源氏再興の挙兵をして鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えます。
のちに大倉幕府と呼ばれました。
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もと武士で、誤って人妻を殺した罪を悔いて出家し、その後、伊豆で源頼朝に挙兵を勧めた僧が開山と伝えられる寺はどこか。
答 補陀洛寺
第2回鎌倉検定試験2級
材木座にある補陀洛寺の開山で、もとは武士であって、平家追討に決起するよう源頼朝を説いた僧侶はだれか。
答 文覚
第2回鎌倉検定試験3級
源頼朝に平家打倒の挙兵を勧めた文覚が開山と伝えられる( 補陀落 )寺には平氏滅亡の折りに( 平宗盛 )が最後まで持っていたと伝えられる平氏の赤旗が保存されている。
第10回鎌倉検定試験1級
源頼朝に挙兵を勧めたという文覚は、もとは遠藤盛遠という北面の武士でした。
しかし、19歳のときに突然出家します。
その理由は・・・
盛遠は、渡辺渡の妻袈裟御前に懸想します。
言い寄られて困った袈裟御前は、夫の寝所を盛遠に教えて、これを討つように促すと、自分が身代わりとなって殺されたのだそうです。
袈裟御前を殺してしまったことが出家の理由のようです。
(京都:恋塚寺)
その後、文覚は、神護寺再興のための強訴をして伊豆国へ流され、そこで源頼朝と出逢って、平家打倒の挙兵を勧めたのだと伝えられているようです。
(京都)
(伊豆の国市)
毘沙門堂は、伊豆に流された文覚が草庵を結んだ場所とされています。
補陀洛寺は、1181年(養和元年)に源頼朝の祈願所として建立されたのだと伝えられています。
平宗盛が持っていたとされる平家の赤旗には、平清盛が書いたという「九万八千軍神」の文字が残されています。
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源頼朝が材木座の来迎寺の地にもともとあった能蔵寺を建立した理由は何か。
答 三浦大介義明の菩提を弔うため
第8回鎌倉検定試験3級
材木座の来迎寺に墓がある武将はだれか。
答 三浦義明
第4回鎌倉検定試験3級
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると三浦一族の総帥義明は頼朝に味方します。
義明は、源頼朝の挙兵に合わせて一族を衣笠城から出撃させますが、石橋山の戦いに間に合いませんでした。
頼朝の敗北を知った三浦軍は、衣笠へ戻りますが、その途中の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠と遭遇し、合戦となってしまいます。
三浦軍は、なんとか衣笠城に辿り着きますが、後日、重忠が一族の江戸氏や河越氏を率いて衣笠城を攻めたため、義明は、子義澄らを逃して、自らは死を選びました。
参考:小坪・衣笠合戦
材木座の来迎寺は、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としている寺院。
(来迎寺)
義明の五輪塔の横には、孫で由比ヶ浜で討死した多々良重春の五輪塔も建てられています。
(横須賀)
衣笠城は、三浦氏の祖為通が築城しました。
(横須賀)
横須賀の満昌寺も、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために創建した寺院。
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伊豆で蛭ヶ小島に流されていた源頼朝の夢枕に、「かくれ里の稲荷」という神霊が立ち、挙兵を勧めた。頼朝はこの託宣に従い挙兵、戦いに勝利したという。のちに、この「かくれ里」の地で祠を見つけた頼朝は、だれに命じて社(後の佐助稲荷神社)を建てさせたか。
畠山重忠
第9回鎌倉検定試験2級 寺社
源頼朝がまだ伊豆国の蛭ヶ小島に配流の身であったころのこと。
「かくれ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、頼朝に挙兵を勧めました。
その後、源氏再興の挙兵をして鎌倉を本拠と定めた頼朝は、かくれ里と呼ばれる地に祠を発見。
畠山重忠に命じて社殿を建立させました。
それが佐助稲荷神社の始まりなのだと伝えられています。
伊豆の流人時代は「佐殿」(すけどの)と呼ばれていた頼朝。
初陣を果たした1159年(平治元年)の平治の乱で、一時、右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられたためです。
すぐに平清盛に敗れて解官されてしまいますが、伊豆では「佐殿」と呼ばれ続けていたようです。
佐助稲荷神社の「佐助」という名には、「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・
(伊豆の国市)
1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛敗れた源頼朝は、翌年3月11日、伊豆国流罪となりました。
流された場所は蛭ヶ小島だったのだと伝えられています。
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