日蓮聖人像
(妙本寺)
1222年(承久4年)、現在の千葉県鴨川市(旧安房郡天津小湊町)で誕生した日蓮。
1233年(天福元年)に清澄寺(千葉県鴨川市)に入門し、1238年(暦仁元年)、16歳で出家して是聖房蓮長と名乗ります。
その後、比叡山や高野山などでも学んでいますが、生涯よき師に巡り会うことがなかったという日蓮。
書物を師として学んだともいわれています。
そして、「法華の教えこそ釈迦が本当に説きたかったもの」という結論に達します。
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1253年(建長5年)、法華宗を開いた日蓮は、翌年、鎌倉に出て布教を開始しました。
名越の松葉ヶ谷に草庵を結んだのだと伝えられていますが、その場所が何処なのかは特定されていません。
日蓮乞水は、1254年(建長6年)、名越切通を越えて鎌倉に入った日蓮が、持っていた杖で地面を突き刺して湧き出させたという伝説の水。
日蓮が鎌倉に入った頃に弟子となったのが、天台宗の僧であった日昭と、日昭の妹の子日朗でした。
(日昭が開いた寺)
(日朗が開いた寺)
日蓮は、小町大路を中心に辻説法を行っていました。
日蓮が辻説法を始めた頃の鎌倉は、天災地変があいついで起こっていたといいます。
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鎌倉で布教を続けてきた日蓮は、1260年(文応元年)7月16日、『立正安国論』を書き上げ、宿谷光則を通じて当時の最高権力者・北条時頼に提出します。
その冒頭には、
「天変地異・飢饉・疫病が遍く天下に満ち広く地上を覆っている。
牛馬はそこかしこに倒れ人の屍は路にあふれている。
死者は大半を超へ、これを悲しまない人は一人もいない」
と記されています。
この頃の鎌倉は、地震や洪水などの自然災害が頻発していました。
当時の鎌倉の街は『立正安国論』の冒頭に記されたとおりの状況であったと考えられています。
さらに、法然の念仏を批判し、
「念仏を禁止して正しい教えを広めなければ外国の侵略があり内乱が起こる」
と予言しています。
蒙古襲来(元寇)と二月騒動の予言だったのだと言われています。
しかし、幕府には受け入れられず、8月27日夜、念仏信者によって松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされてしまいました(松葉ヶ谷の法難)。
安国論寺の御小庵の奥に御法窟と呼ばれる岩窟があります。
日蓮は、そこで『立正安国論』を著したのだと伝えられています。
立正安国論の碑
(安国論寺)
この碑には『立正安国論』の結びの部分が刻まれています。
汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ
速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ
然レバ則チ三界ハ仏国也
仏国其レ衰ヘンヤ
十方ハ悉ク宝土也
宝土何ゾ壊レンヤ
国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ
身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン
此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ
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日蓮が辻説法をはじめてからは、四条金吾や池上宗仲などが日蓮信者となっています。
もとは建長寺の蘭渓道隆の教えを受けていた者であったといいますから、日蓮の影響力はかなり大きなものとなっていたと考えられます。
四条金吾邸址の碑
(収玄寺)
収玄寺は、四条金吾の邸跡に建てられた寺。
池上本門寺は、日蓮入滅の霊跡。
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日蓮の霊跡の夏のイベント
~龍口法難会~
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夏休み鎌倉計画!
夏休み江の島計画!