武者鑑一名人相合南伝二
( 国立国会図書館デジタルコレクション)
源頼朝と北条政子の長女大姫は、まだ頼朝が伊豆の流人だった1178年(治承2年)の誕生と伝えられています。
大姫は、長女を意味するもので、本名が何だったのかは不明です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1183年(寿永2年)、木曽義仲の長男・義高(清水冠者)が人質として鎌倉に送られてきます。
名目上は、大姫の婿ということだったようです。
義高が11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。
📎志田義弘の反抗と木曽義仲との対立
義高によく懐いていたという大姫でしたが・・・
1184年(寿永3年)正月20日、頼朝は弟の範頼と義経に命じて、義高の父木曽義仲を滅ぼし、4月になると義高も誅殺することを決めます。
義高誅殺の事は、大姫には知られないようにしていたようですが、女房らが知らせてしまったのだそうです。
(大津市:義仲寺)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~大姫、義高を逃がす~
1184年(元暦元年)4月21日の夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から出しました。
馬は、他の場所に隠してありました。
馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったといいます。
義高の寝床には、海野小太郎幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていました。
しかし・・・
晩になってばれてしまいました。
怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じます。
大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったといいます。
※海野幸氏は、義高が鎌倉に送られる際に随行してきた信濃国の武将で弓馬四天王の一人。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~義高が誅殺される~
それから5日後の4月26日、堀親家の郎従藤内光澄が戻り、入間河原で義高を誅殺したことが報告されます。
そのことを知った大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなくなりました。
母北条政子も大姫の心中を察して、義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったといいます。
(鎌倉市:常楽寺)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~政子、藤内光澄を斬罪に処す~
その後大姫は、病床に伏し、日毎に憔悴していきました。
6月27日、政子は、大姫が病気になったのは義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかったとして斬罪に処したと伝えられています。
(狭山市)
清水八幡宮は、藤内光澄に殺害された義高を祀る社。
首を取られた義高の遺体は、里人によって入間河原に葬られ、北条政子が供養をし、義高を祀る社が建てられたのだと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~延命長寿祈願~
義高が誅殺されてから、大姫は床に伏す日々が続きました。
(熱海市)
逢初地蔵堂は、大姫の延命祈願のために、北条政子が建立したのだと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~静の舞~
1186年(文治2年)5月27日、大姫は、病気快復祈願のため参籠していた勝長寿院で、静の舞を観ます。
愛する源義経との仲を引き裂かれた静御前と義高を殺された大姫。
お互いにとって、特別な存在だったのかもしれません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~頼朝の日向参詣~
1194年(建久5年)7月29日、大姫は危篤状態に陥ります。
八方手を尽くしたといいますが、一向によくなりませんでした。
そこで、頼朝は、「この国に2つとない効験のある薬師如来」という日向薬師の参詣を思い立ったのだといいます。
頼朝は、8月8日の早暁、日向薬師に向けて出発しています。
そして、仏に祈った後、夜になって帰ったそうです。
(伊勢原市)
日向薬師は、行基によって開かれた霊山寺がそのはじまりとされ、薬師如来の霊場として信仰されてきました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~大姫入内問題~
1195年(建久6年)、頼朝は、妻の政子、長男の頼家、長女の大姫を伴って上洛します。
南都東大寺の大仏殿落慶供養へ出席するための上洛ですが、娘大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったともいわれています。
この頃の大姫は病気も小康状態を保っていたそうです。
この上洛で、丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行いますが・・・
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~大姫死去~
1197年(建久8年)7月14日、大姫がこの世を去ります。
おそらく20歳前後だったのでしょう。
遺体は、勝長寿院に葬られたものと考えられますが、不明です。
岩船地蔵は、大姫の守り本尊とされる石造地蔵尊。
(常楽寺)
常楽寺の木曽塚の下にある姫宮塚は、北条泰時の娘の墓といわれていますが、一説には大姫の墓だともいわれています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河ドラマ