『吾妻鏡』によると・・・
1185年(元暦2年)3月24日、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経。
しかし、5月7日、壇ノ浦で捕えた平宗盛父子を護送して鎌倉へ向かいますが、兄の源頼朝は、義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。
そして、6月9日には「宗盛父子を護送して帰京せよ」と命じられます。
『平家物語』によると・・・
梶原景時の讒言で鎌倉へは入れられず、腰越に逗留していた義経は、起請文を書くも力及ばず、空しく都に上る途中で箱根権現を参拝。
「兄弟の仲和らげしめ給へ」と祈願し、薄緑の剣を奉納したのだそうです。
『吾妻鏡』によると・・・
それから4年後の1189年(文治5年)閏4月30日、義経は奥州平泉で最後を遂げます。
さらに4年が経った1193年(建久4年)5月28日、富士裾野では曽我兄弟の仇討ちが起こりました。
『平家物語』によると・・・
曽我兄弟が工藤祐経を討つときに使われたのが、義経が奉納した薄緑。
箱根権現の別当行実から曽我兄弟へ渡されたのだと言います。
曽我兄弟の仇討ち後、薄緑は源頼朝の手に渡ったのだとか・・・
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「薄緑の剣」とは・・・
源満仲が作らせた源氏重代の太刀。
はじめは、罪人を試し斬りした際に膝まで切れたから「膝丸」と名付けられたそうです。
満仲の子頼光の代には、土蜘蛛退治に使用されたことから「蜘蛛切」と呼ばれるようになります。
その後、何度も名を変え、源頼基、源頼義、源義家、源為義を経て源義経みに伝わる頃には「吠丸」と呼ばれていたようですが、義経は「薄緑」と改めたのだと言います。
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