「政所」とは、三位以上の公卿に設置を許された家政機関で、鎌倉幕府においては一般政務・財政を司る機関のことです。
1184年(元暦元年)に設置された公文所を前身としています。
この吉書始で頼朝は、それまでの文書形式を改めて「政所下文」という形式をとることとし、これまでの書状を回収して「政所下文」として出し直しすことを命じています。
簡単にいうと・・・
これまでは、御家人に対しての所領安堵などには、頼朝の花押が描かれた文書が発行されていましたが、それを回収し政所職員が署名した文書を発行するということのようです。
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~千葉常胤の逸話~
『吾妻鏡』によれば・・・
征夷大将軍に任命された頼朝は、1192年(建久3年)8月5日、改めて「将軍家政所始」を行っています。
このとき先ず千葉常胤に政所下文が与えられました。
しかし、常胤は・・・
「政所職員の署名だけの文書では、所領安堵の証拠とすることはできない」
として頼朝の花押のある文書を添えて下してもらったといいます。
~小山朝政への頼朝の下文と政所下文~
下の文書は、小山朝政に下されたものです。建久3年9月12日付けで、頼朝の花押の入った下文と、新しい形式の政所下文の両方が発行されていることがわかります。
頼朝の花押の入った下文 |
新しい形式の政所下文
案主:藤井俊長
令:二階堂行政
知家事:中原光家
別当:大江広元
の花押の入った文書です。
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御家人にとっては、政治機関などは関係なく、源頼朝という鎌倉の主「鎌倉殿」の書状が欲しかったということなのでしょう。
効力は同じだと言っても、やはり、官僚の発行した文書よりも、将軍自らが発行した文書の方が重みがありますから・・・。
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※公文所から政所と改称された時期については諸説あるようです。
1191年(建久2年)の吉書始のときとするものや、三位以上の公卿に設置を許された家政機関であることから、頼朝が従二位へ昇った1185年(元暦2年)とするものなどがあります。
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