甲府城は武田氏滅亡後に築かれた城ですが、ここは甲斐武田氏初代当主・武田信義の子・一条忠頼の居館があった地。
1704年(宝永元年)、徳川五代将軍綱吉の側用人として活躍した柳沢吉保が城主となりますが・・・
吉保は一条忠頼から始まる一条氏の末裔といわれています。
吉保が甲府城に入城したことはなかったようですが、城主となった翌年、吉保は甲斐武田氏十九代当主・武田信玄の百三十三回忌法要を恵林寺で執り行い、武田氏に連なる一族であることを強調したのだといわれています。
同年、信玄の躑躅ヶ崎館の麓に菩提寺となる永慶寺を創建しています。
1709年(宝永6年)、綱吉が亡くなると、儒者新井白石が権勢を握るようになり、吉保も幕府の役職を辞し、長男の吉里に柳沢家の家督を譲って隠居。
1710(宝永7年)には、吉保の子吉里が城主になります。
それまでの甲府藩主は、国元で直接藩政に携わることはありませんでしたが、この時はじめて藩主が国元に入りました。
1714年(正徳4年)11月2日、吉保が死去。
遺骸は永慶寺に葬られています。
大和郡山城は、戦国時代に豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石の領主として入った城。
1724年(享保9年)には、甲府藩から郡山藩に移封された吉里が入城。
吉保が葬られた永慶寺も郡山城下に移されています。
甲府時代の永慶寺にあった吉保の墓は、信玄の菩提寺・恵林寺(甲州市)に改葬されました。
永慶寺に伝えられる柳沢吉保と夫人坐像は、甲府の仏師・大下浄慶(常慶)とその子息の作で、浄慶は恵林寺の武田不動明王を制作した京の仏師・康清の子孫といわれています。
山門は大和郡山城の城門を移築したもの。
大和郡山城本丸跡にある柳澤神社は、吉保を祀る社。
大和郡山城二の丸跡の柳澤文庫には、柳沢家歴代藩主の書画をはじめとする多くの歴史資料が保存されています。
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