鎌倉幕府の四代将軍となった藤原頼経は、左大臣九条道家の子。
母は源頼朝の妹坊門姫の孫。
『吾妻鏡』によれば・・・
1219年(承久元年)7月19日、四代将軍候補として鎌倉へ下ってきました(当時2歳)。
出発に当たっては藤原氏の氏神春日大社に参詣したそうです。
その後、1225年(嘉禄元年)12月29日に元服、翌正月27日には将軍宣下がありました。
明王院の庚申塔
上の写真は明王院門前の庚申塔(明王院は頼経が創建した寺院)。
「源頼朝卿四代将軍源頼経卿御建立地」と刻まれています。
源頼経とされているのは、源頼朝から続く「源氏の将軍家」という意味なのでしょうか?
『年報中世史研究』という学術雑誌の中の論文には、頼経が将軍となる際、「藤原姓から源姓に変えるかどうか議論された」ということが書かれているようです。
征夷大将軍宣下を得るために上洛した佐々木信綱は、頼経の改姓について、その判断を仰ぐため、藤原氏の氏神春日大社へも派遣されたともいいます。
結局、春日大社の判断により改姓はなかったようですが・・・。
いずれにしても、時代の英雄源頼朝が征夷大将軍に就任して以来、御家人たちに必要だったのは「源氏の将軍」だったのかもしれません。
そんな期待からかどうかわかりませんが、1230年(寛喜2年)12月9日、頼経は、二代将軍源頼家の娘竹御所と結婚します。
竹御所は、三代将軍源実朝が暗殺された後、唯一源頼朝の血筋をひく人物となっていました。
御家人たちは頼朝の血をひく子の誕生を待っていたことでしょう。
しかし、竹御所は、1234年(天福2年)7月27日、難産が原因で亡くなっています。
~参考~
(頼経の父九条道家の創建。)
1246年(寛元4年)7月11日、頼経は北条時頼によって鎌倉を追放され京へ帰ります(宮騒動)。
このとき、父九条道家は関東申次の職を罷免されました。
五代将軍だった頼経の子頼嗣も、1252年(建長4年)には、鎌倉を追放され京へ帰りました。
父頼経と祖父道家が了行の謀叛に加担したためだといわれています(参考:了行法師の謀叛と追放された将軍藤原頼嗣)。
この年の2月21日、幕府転覆計画に関与していたとして追及を受けていた九条道家が亡くなっています。
1256年(康元元年)8月11日、頼経死去(39歳)。
同年9月25日、頼嗣死去(18歳)。
頼経も頼嗣も、九条家の菩提所東福寺に葬られたのでしょうか・・・。
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