二代執権北条義時は、戌神将の夢のお告げによって、大倉郷の南の山の麓に御堂を建立します。
そして、1218年(建保6年)12月2日、落成の供養が行われました。
この御堂(大倉薬師堂)が覚園寺の前身となります。
義時は、日頃より薬師如来を信仰し、十二神将を崇めていたといいます。
『吾妻鏡』によれば・・・
1218年(建保6年)7月8日、将軍源実朝の鶴岡八幡宮参拝に従っていた義時は、晩になって屋敷に戻ります。
すると・・・
休息していた義時の夢の中に、薬師如来につき従う十二神将のうちの戌神将が現れます。
そして・・・
「今年の将軍の参拝は無事であったが、来年の拝賀の日には供奉しないように」
と告げたのだといいます。
(※翌年正月27日、源実朝の右大臣拝賀の式が行われます。)
夢から覚めた義時は、このお告げをどのように考えてよいか判断しかねたようですが・・・
翌日、大倉郷の南の山際に御堂を建立して、薬師如来像を安置するように命じます。
これに対し、周囲の者は・・・
「今年は将軍源実朝卿のご参詣によって、京からも多数の客人が集まりました。
その間、御家人や土地の者は、多くの財産を費やしています。
その嘆き悲しみがおさまらないうちに、大きな御堂を建立することは、
民を苦しめることになります」
と諫めます。
しかし、義時は、
「これは個人の身の安全を祈願するものであるので、百姓に負担させるわけにはいかない」
といって造営を開始したといいます。
こうして完成した大倉薬師堂は、1218年(建保6年)12月2日に落成式が行われます。
導師は、退耕行勇。
本尊の薬師如来は、運慶によって彫られたものだったと伝えられています。
同日、源実朝が右大臣に任ぜられています。
📎昇進を重ねた源実朝)
そして新年を迎えます。
1月27日には鶴岡八幡宮で源実朝の右大臣拝賀式が行われました。
しかし、剣を持って従っていた義時は、鶴岡八幡宮の楼門に入るときに気分が悪くなり、役を源仲章に譲って小町の屋敷に帰ります。
その後、実朝は甥の公暁によって暗殺されました。
義時の代役となった仲章も一緒に斬殺されています。
(参考:源実朝の暗殺)
義時の気分が悪くなった原因は、白い犬が楼門の傍らに見えたからだといいます。
公暁が隠れていたとう伝説の銀杏
(2009年)
2月8日、義時は大倉薬師堂に詣でます。
そのとき、実朝が暗殺された日に、十二神将のうちの戌神将が堂内にいなかったことを知らされます。
戌神将
ということで・・・
『吾妻鏡』は、戌神将が白い犬に姿を変えて楼門に現れ、義時を救ったと伝えています。