別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年12月2日金曜日

大庭御厨と大庭氏

「御厨」(みくりや)とは、有力な神社の荘園のことです。

鎌倉権五郎景政は、1104年(長治元年)頃、先祖から受け継いだという大庭荘を開発します。
そして、その土地は伊勢神宮に寄進され相模国最大の御厨となりました。
(鎌倉権五郎景政・・・参考:御霊神社(坂ノ下)

皇大神宮(藤沢市鵠沼)
大庭御厨の総鎮守として尊崇されていました。

藤沢市には「大庭」の地名が残されています。


~大庭御厨の下司大庭氏~

鎌倉権五郎景政の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったともいわれていますが、諸説あって定かではないようです。


~源義朝の大庭御厨への乱入~

源義朝は、先祖から伝わる鎌倉を得ていましたが、1144年(天養元年)、俄に鎌倉郡内だと称して大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行っています。
(当時の大庭御厨の現地管理者(下司)は大庭景宗でした。)

翌年、朝廷は義朝への処分を下していますが、その後の経緯は不明のようです。


~大庭景義と景親~

大庭景義・景親の兄弟は、鎌倉権五郎景政の孫景忠の子、あるいは、景宗の子といわれています。実際がどのような家系なのかは諸説あって定かではありません(参考:相模の武将「大庭氏」)。

1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、大庭景義・景親の兄弟は源義朝に従っています。このとき、兄景義が源為朝(義朝の弟)の矢を足に受けて重傷を負ったことから、家督は弟景親に譲られたものと考えられています(参考:神明大神宮(懐島城址))。

1159年(平治元年)、平治の乱で源義朝が敗れると、大庭景親は平清盛の家人となります。
景親は、大庭城を拠点としていたと伝えられています。


神明大神宮



~源頼朝の挙兵と大庭兄弟~

1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると兄大庭景義は頼朝に付きます。
一方、景親は頼朝に敵対し、石橋山の合戦では頼朝を破りますが、その後捕らえられ片瀬で処刑されました。


鎌倉手帳
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html


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