翌年6月には、千曲川横田河原でも平氏軍を破り北陸に侵攻しています。
義仲の父は、東宮帯刀先生と呼ばれた源義賢。
源義朝と対立し、1155年(久寿2年)8月、義朝の長子悪源太義平に武蔵国にあった大蔵館を襲撃され討たれてしまいました。
(※義賢と義朝は異母兄弟。したがって、頼朝と義仲は従兄弟にあたります。)
『吾妻鏡』によれば・・・
父義賢が討たれたとき3歳だった義仲は、乳母夫の中原兼遠に抱かれて信州の木曽へ逃れ、兼遠の庇護のもとに育てられたのだといいます。
光照寺(逗子市沼間)
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逗子市の光照寺は、義平の菩提寺。父義朝の居館(沼浜亭)があったと伝えられています(参考:法勝寺(逗子市))。
義平は、1155年(久寿2年)に義仲の父義賢を討った当時、鎌倉か逗子の義朝邸にいたものと考えられます。
~頼朝と義仲の対立~
1183年(寿永2年)3月、頼朝と対立した志田義広と源行家を義仲が匿ったことで、頼朝と義仲とが対立、頼朝は義仲追討のため、10万騎で善光寺に押し寄せました。
(※志田義広と源行家は、頼朝と義仲にとっては叔父にあたります。)
その結果、義仲が長子義高を人質として鎌倉へ送ることで和議が成立しています。
岩船地蔵堂 |
人質として送られてきた義高は、頼朝の娘大姫と結婚します(政略結婚)。しかし、のちに父義仲が討たれると義高も殺されました(参考:木曽義高の誅殺)。
大姫はそのショックで病気となり生涯治ることはなかったといいます。
扇ヶ谷の岩船地蔵堂には、大姫の守り本尊が安置されているといいます。
大船の常楽寺の裏山には、義高の墓と伝わる木曽塚があります。
~義仲の入京~
頼朝との和議によって後方の憂いを取り除いた義仲は、北陸道を京都に進軍します。
5月には倶利伽羅峠で平氏軍を破るとさらに進軍を続け、平氏一門を都落ちさせ、7月28日に入京しました。
しかし、義仲の入京によって京都の治安は悪化。後白河法皇は頼朝の上洛を望むようになります。
~義仲の追討~
後白河法皇は、1183年(寿永2年)閏10月、頼朝を元の官職である従五位下左兵衛佐に戻し、「東海・東山両道における頼朝の支配権」を認めます(寿永二年十月宣旨)。
これによって、これまで反乱軍として扱われていた鎌倉軍は、朝廷から認められる軍となりました。
(参考:本格的に動き始めた鎌倉の歴史)
さっそく頼朝は、その権限を行使し、弟義経を派遣して義仲の動向を探らせ、さらに、弟範頼に大軍をつけて鎌倉を出発させました。
翌1184年(寿永3年)正月には、範頼と義経が合流し、宇治川の戦いで義仲軍を破ります。
義仲はわずかな兵ととともに京都を脱出しますが、1月20日、近江国粟津で討死しました。
唐糸やぐら |
大町釈迦堂口遺跡(北条時政邸跡と呼ばれていた場所)には、義仲の家臣手塚光盛の娘唐糸の伝説が残されています。
頼朝の動向を探るため鎌倉に送り込まれた唐糸が幽閉されたのが、「唐糸やぐら」だったと伝えられています。