別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2010年12月14日火曜日

本格的に動き始めた鎌倉の歴史

=平清盛の死と飢饉=

1181年(治承5年)、平清盛が高熱におかされて64歳で亡くなります。

清盛の死によって平氏の力は弱まりますが、西国を襲った大飢饉も平氏の勢力を削ぐことになります。

平清盛像
(六波羅蜜寺)

(1180年(治承4年)の異常気象の影響によって、翌年に起こった大飢饉は、翌々年にも波及します。

頼朝の挙兵(1180年)からの数年間が休戦状態となっていますが、この飢饉の影響が大きく、兵を動かすことなどできる状況にはありませんでした。)

まだ、東国の地盤整備が済んでいなかった頼朝にとっては、これらの出来事はまことに好都合で、鎌倉から動かずに済み、急がねばならなかった東国の強化に全力を尽くすことができました。


当時の飢饉の様子(餓鬼草子)


=にわかに激しくなる天下の情勢=


~志田義広の反抗~

1183年(寿永2年)に入ると、安定していた情勢も動き始めました。

2月、頼朝の叔父にあたる志田義広が頼朝に反抗しますが、失敗に終わっています。

義広は常陸国で勢力をふるい、一時は、あなどりがたい勢力となっていました。

この叔父の反乱を鎌倉殿頼朝が鎮圧したことは、鎌倉の新政権の力を関東一帯に知らしめることになり、その勢力が強化されるきっかけとなったといいます。


~木曽義仲との対立~

頼朝の従兄弟木曽義仲は、頼朝と相前後して挙兵し、1183年(寿永2年)には、信濃、上野、越後、越前をその勢力下に入れていました。

以前より、上野の支配については、頼朝の支配圏との関係で衝突があったのですが、1183年(寿永2年)、頼朝と義仲の関係は急激に悪化します。


頼朝と義仲の対立の原因として・・・

頼朝に反抗した志田義広が木曽義仲のもとに逃げ込み、これを義仲が匿ったため。

◎甲斐の武田信光が縁組みを断られた腹いせに「義仲が頼朝を討とうとしている」と密告したため。

頼朝が追放した源行家(頼朝の叔父)を義仲が匿ったため。

などがあげられています。


両者の対立は、あわや合戦というところまでになりますが、義仲が長男を頼朝のもとへ人質に出すことで和議が成立します。

この人質というのが、頼朝の娘大姫と結婚したという清水冠者義高です。

当時義高が11歳、大姫は6歳くらいだったといいます。このことが、のちの大姫に悲劇に繋がっていきます(参考:岩船地蔵堂)。


~平氏の都落ち~

1183年(寿永2年)春、平氏は北陸の義仲を攻めます。

しかし、義仲は叔父の義広、行家とともにこれを迎え撃ち、5月11日、倶利伽羅峠の夜戦で平氏軍を潰滅させます。

勢いに乗った義仲は、北陸道を攻め上り、6月には近江国に入ります。近国の反平氏勢力らの動きも活発になり、京の平氏包囲網が巡らされました。

7月25日、耐えきれなくなった平氏は、6歳の安徳天皇と三種の神器を奉じて六波羅に火をかけ、京の都をあとにします。

そして、平氏に入れ替わって、義仲らが都に入ります。


~義仲の失敗~

飢饉によって食料が不足している都に、義仲らの大量の軍勢が入ったことで、徴発・掠奪・暴行・青田刈りが頻発・横行するようになります。

そのため、都の人心は義仲から離れていきます。さらに、義仲は、皇位継承問題に介入したため、後白河法皇とも対立するようになります。

そもそも、義仲の軍は、寄せ集めの軍隊であって、何の統制もとれていなかったといいます。

義仲自身も統制できるだけの知識・教養に欠けていたものと考えられます。


~寿永二年十月宣旨~

このような中、後白河法皇は頼朝に上京をうながします。

しかし、頼朝は、奥州藤原秀衡の脅威と畿内の飢饉を理由に断り続けました。

同時に、「東海・東山・北陸三道の国衙領・荘園をもとのように国司・本所に返還せよ」という勅令発布を要請しています。


そして、1183年(寿永2年)10月、

「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ。」

という内容の宣旨が交付されました。


これが「寿永二年十月宣旨」です。

この宣旨によって、東国における頼朝の支配権が承認され、同時に従五位下の位に復帰した頼朝は、このときに「朝敵」の汚名からのがれることになります。

(これまで、頼朝は「養和」及び「寿永」の年号を使用してきませんでしたが、十月宣旨の発布によって、「寿永」の年号を使い始めています。)


~義仲の最期~

十月宣旨を受けた頼朝は、弟義経を京に使わします。

東海道を進んだ一行は、頼朝が東国の支配権を得たことを宣伝しつつ近江まで進軍します。

一方、都の義仲は、11月、法皇の法住寺殿の焼き討ちを決行し、翌年1月には征夷大将軍に任命させますが、

まもなく、義経と兄範頼らが率いる東国軍が京を攻撃し、義仲軍は宇治川の戦いや瀬田の戦いで惨敗し、北陸へ逃げる途中で討ち取られました。


~上総介広常の暗殺~

十月宣旨のあった1183年(寿永2年)末、頼朝梶原景時に命じて、上総介広常を暗殺させました。

以前よりの頼朝に対する無礼が原因ともいえますが、最大の原因は、朝廷との交渉を進める頼朝に対して「常に不満を語っていたため」と考えられます。

のちに頼朝は、「広常は最大の功臣の一人だったが、天皇に対し謀叛心を持っていたので殺した」と述べています。


鎌倉手帳


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