1180年(治承4年)の平重衡の南都焼討で焼失した東大寺は、俊乗坊重源のもとで復興事業が開始され、1185年(元暦2年)には大仏の開眼供養が行われました。
続いて大仏殿の再建が開始され、1195年(建久6年)に落慶。
供養には東大寺の復興を支援していた源頼朝も参列しています。
翌1196年(建久7年)には、康慶をはじめとする慶派一門による二菩薩と四天王が造立されました。
運慶は父康慶とともに虚空蔵菩薩の大仏師を務め、増長天の大仏師も務めています。
この功績により、法眼の地位を得ました。
造像の負担をしたのは、源頼朝の命を受けた鎌倉御家人たち。
『吾妻鏡』によると・・・
如意輪観音は宇都宮朝綱
虚空蔵菩薩像は中原親能
増長天像は畠山重忠
持国天像は武田信光
多聞天像は小笠原長清
広目天像は梶原景時
が負担しています。
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運慶らが造立した大仏殿の如意輪観音・虚空蔵菩薩・広目天・多聞天は、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火によって焼失。
現在の諸像は、その後の復興事業によって制作されたもの。
虚空蔵菩薩
如意輪観音
広目天
多聞天
持国天と増長天は頭部
持国天と増長天は頭部が残されているのみとなっています。
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