奈良仏師成朝が呼ばれ、「黄金の阿弥陀仏」が安置されたといいます。
頼朝は、勝長寿院を建立するため、鎌倉中の景勝地を探して回り、御所の東南にあった霊崛(れいくつ)を造営の場所と決めたといいます。
そして、1184年(元暦元年)11月26日、土地に縄張りをして基礎造りを始める「地曳始の儀」が行われました。
頼朝は、勝長寿院に父義朝の廟所を設けるため、後白河法皇に義朝の首の探索を依頼していました。
1185年(文治元年)8月12日、
後白河法皇は、刑官に命じて、東の獄門の辺りで義朝の「しゃれこうべ」を見つけ出させ、義朝の郎党鎌田政清の「しゃれこうべ」とともに、大江判官公朝に持たせ鎌倉へ向かわせています。
そして、8月30日、その公朝が鎌倉に到着します。
遺骨は、文覚の弟子が首にかけていました。
頼朝は、片瀬まで出迎えて、父義朝と鎌田政清の「しゃれこうべ」を受け取ったそうです。
(片瀬)
頼朝が再建した寺で、義朝の遺骨を受け取った場所ともいわれています。
かつては、「鎌倉殿駒牽の松」と呼ばれる松があったそうです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
9月3日、義朝と政清の埋葬が行われました。
埋葬に立ち会ったのは、頼朝と平賀義信・大内惟義父子、毛利頼隆の源氏一門のみでした。
他の御家人は郭外に止められたといいます。
大内義信は、新羅三郎義光の孫で、平治の乱で義朝に従い、敗戦後、東国に逃れる義朝に従った七人のうちの一人でした。
毛利頼隆は、八幡太郎義家の孫で、父義隆は、平治の乱で義朝の身代わりとなって討死しています。
一緒に葬られた鎌田政清は、義朝の第一の郎党で、政清の母は義朝の乳母でした。
そのため、義朝と政清は乳兄弟とも呼ばれていました。
平治の乱後、東国に逃れようとする義朝に従っていましたが、尾張国で長田忠致の裏切りに遭い、義朝とともに暗殺されています。
(勝長寿院跡)
※勝長寿院は、翌10月24日に完成し、落慶供養が行われています。