1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺されます(参考:源実朝の暗殺)。
実行犯は、二代将軍源頼家の子公暁ですが、事件後直ちに誅殺されています。頼家の四男禅暁も翌年に殺害され、源頼朝の血統は絶たれました。
兄頼家の失脚後、三代将軍となりますが、その実権は北条氏に握られていました。
子がいなかった実朝には、自分の後継者に後鳥羽上皇の皇子を迎えるという考えがあったといわれています。
後鳥羽上皇も実朝には好意的だったといいますし、「実朝」という名は後鳥羽上皇に与えられたものともいわれています。
(一方で、実朝の昇進は「官打」(かんうち)だったという説もありますが・・・)
(鎌倉国宝館前)
「山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
『金槐和歌集』にも載せられている実朝の代表的な和歌です。
山が裂けても、海が干上がっても、後鳥羽上皇に二心を抱くようなことはないという意味のようです。
実朝と後鳥羽上皇が良好な関係にあったことがうかがえます。
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実朝と後鳥羽上皇が、それぞれどのような気持でいたのかは今となってはわかりませんが、実朝が暗殺されたことで、鎌倉幕府と朝廷との関係が一気に崩壊してしまったことは確かです。
鎌倉時代最大の内戦といわれます。
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後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討滅しようとしたのは、1220年(承久2年)の夏頃であったのではないかといわれています。
1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は倒幕の兵を集め、翌日には、北条義時追討の院宣を発しました
これに対して北条政子は5月19日、御家人を集めて訓示を行ったといいます。
実朝亡き後、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えようとしますが、
後鳥羽上皇に拒否されたため、九条道家の子三寅(頼経)が鎌倉に下向し四代将軍となります。
政子は、三寅の後見役となって「尼将軍」と呼ばれます。
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~尼将軍北条政子の訓示~
「皆心を一にして奉る可し、是最期の詞なり、故右大将軍(源頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い、俸禄と云い、其の恩既に山岳より高く、溟渤(めいぼつ:広い海)よりも深し、報謝の志浅からんや、而るに今逆臣の讒に依りて、非義の論旨を下さる、名を惜しむの族は、早く秀康、胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うす可し、但し院中(後鳥羽上皇方)に参らんと欲する者は、只今申し切る可し」
この訓示の中の胤義とは三浦胤義のことで、後鳥羽上皇の討幕計画に与します。
胤義の妻は二代将軍頼家の愛妾だったといい、殺害された頼家の四男禅暁の母親でした。
討幕計画には、兄義村も与することが約束されていたといいますが、義村はいち早く幕府に忠誠を誓っています。
秀康とは藤原秀康のことで、三浦胤義を後鳥羽上皇方に誘った人物です。
後鳥羽上皇の挙兵後、協力を渋った京都守護の伊賀光季を討ち取っています。
後鳥羽上皇
自ら太刀を鍛えてまで倒幕を実現しようとしましたが、時勢に逆らうことはできませんでした。
後鳥羽上皇方の思惑では、幕府御家人の多くが離反すると考えたのでしょうが、それとは反対に幕府側の結束は固められ、5月22日、胤義と秀康の二人を討つとういう名目で、19万ともいわれる大軍が京都に向かうことになります。
そして、6月13日には鎌倉勢によって京都市中が制圧され、後鳥羽上皇の討幕計画は失敗に終わりました。
関東下知状
北条義時が伊予の御家人河野道久に出した下知状。
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承久の乱の処理が一段落した後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、順徳上皇は佐渡に流されています。
土御門上皇は倒幕に消極的であったことから配流を免れますが、自ら土佐に赴いています。
そして、朝廷を監督するための京都守護の権限が強化され、西国地域を統括するための六波羅探題が設置されています。
承久の乱によって流された三上皇が祀られています。
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