別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2013年12月23日月曜日

宇治川先陣の碑・・・佐々木高綱と梶原景季の先陣争い

1184年(寿永2年)1月20日、源義経は木曽義仲を討つため宇治川から京へ入ります。

このとき繰り広げられたのが佐々木高綱梶原景季の先陣争いです。

2人は、出陣前に源頼朝から名馬を与えられていました。

佐々木高綱が「生食」(いけづき)、梶原景季が「磨墨」(するすみ)。



『平家物語』によれば、


梶原景季は、頼朝に「生食」を所望しますが、「この馬は万が一の時、頼朝が甲冑を着けて乗る馬であるから、磨墨ではどうか。磨墨も生食に劣らない名馬であるぞ」といって「磨墨」を与えたといいます。

 磨墨像
(東京大田区:万福寺


ところが・・・

佐々木高綱が出陣する際に頼朝のところへ挨拶に来ると、「生食を所望する者は大勢いるが・・・」
といって「生食」を高綱に与えてしまいます。

感激した高綱は、「この御馬で宇治川の先陣を承るつもりです。もし私が討死したとお聞きになったときは、先陣は他の者に渡したとお思い下さい。生きているとお聞きになられたならば、先陣は確かに高綱が切ったとお思い下さい」といって頼朝の前を下がったといいます。

生食像
(東京大田区:洗足池


その後、進軍する追討軍の中で、高綱が「生食」に乗っていることを知った景季は、「頼朝から恥辱を与えられた」として、高綱を殺して自分も自害しようと考えます。

しかし、高綱が機転を利かせて、「宇治川を渡るためには、屈強な馬が必要だったので、頼朝様の生月を盗んで参上した」と言うと、景季は、「そうであれば、景季も盗んでくればよかった」と言って笑ったといいます。


~宇治川の先陣争い~


宇治川の戦いは、1月の事でしたので、雪解け水もあって水位が上昇していました。

雪解け水で水位が上昇していた宇治川をどのように渡河するか源義経が考えていると、畠山重忠が「瀬踏みをいたしましょう」といって、五百余騎の轡を並べていました。

すると、平等院北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を激しく走らせて出てきます。

梶原景季佐々木高綱でした。

このとき景季は、高綱より一段ほど先に進んでいたといいます。

高綱は、「腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい。」と景季にいうと、景季は、左右の鐙を踏みゆるめ、手綱を「磨墨」のたてがみに投げかけ、腹帯を解いて締め直しました。

その間に高綱は、景季を追い抜いて、「生食」を川へと打ち入れます。

騙されたと感じた景季も、すぐに「磨墨」を川へ打ち入れ、「佐々木殿、高名を上げようと思って失敗なさるな。水の底には大綱が仕掛けてあるようだぞ」と声をかけますが、高綱は、太刀を抜いて、「生食」の足にかかった大綱を打ち切りながら進み、「生食」も宇治川の流れを気にせず真一文字に渡り、向かいの岸へ乗り上げたといいます。

そして、「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったそうです。

一方、景季の「磨墨」は、川の流れに押し流され、はるか下流から岸に上がったといいます。

こうして、宇治川の戦いは、佐々木高綱が先陣を切ったということです。










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鎌倉御家人:熊谷直実と京都:金戒光明寺



金戒光明寺は、比叡山を下った法然が草庵を結んだ地といわれています。

また、鎌倉時代には源頼朝の御家人だった熊谷直実が法然に弟子入りした地とも伝えられています。

幕末には、京都守護職に任命された会津藩主松平容保が本陣としました。




御影堂横にあった「熊谷直実よろい掛けの松」は、直実が出家するときによろいを掛けたと伝えられていましたが、2代目の松が平成25年に枯れてしまったそうです。

現在、3代目の松の育成が進められ、平成26年春頃には移植されるそうです。



蓮池に架かる極楽橋は、出家を決意した直実が兜を置いて弓の弦を切り、その弓を池に架けた形なのだといいます。



法然廟の前には直実の五輪塔があります。

直実は武蔵国で亡くなったといいますが、一説には京都で亡くなったといわれています。

『吾妻鏡』は、東山の麓で「端座合掌し、高声念仏を唱えながら死去した」と伝えています。









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2013年12月22日日曜日

初詣:江の島・・・金運の白龍王黄金浄水

江の島の辺津宮の白龍王

江の島の白龍王の黄金浄水で銭を清めれば金運向上・財宝福徳の御利益があるといわれています。




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初詣:葛原岡神社のむくろじ御守


「ムクロジの木」の種子で作られた御守りです。

種は羽子板の羽の球にも使われます。


「ムクロジ」を漢字にすると「無患子」。「患いを無くす」ということで、「無病息災」と「厄除け」に効能があるそうです。

また、「ムクロジの木」には、「子が患うことの無い樹」という意味があるそうです。




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三国伝来の釈迦如来・・・京都:清涼寺



京都嵯峨の清涼寺の本尊は、東大寺の奝然(ちょうねん)が中国の宋より持ち帰った像で「三国伝来の釈迦如来」と呼ばれています。



奝然は宋に渡り、台州の開元寺でインドから伝えられた釈迦如来像に出会いました。

この釈迦如来像は、生前の釈迦の姿を彫ったもので、奝然はその像を模刻させて日本に持ち帰りました。

愛宕山麓に安置しようとしたそうですが、それを実現する前に亡くなりました。

その間、釈迦如来像は上品蓮台寺に安置され、奝然弟子盛算(じょうさん)が清涼寺を建立して移したのだといいます。

それが清涼寺に伝わる「三国伝来の釈迦如来」です。




釈迦如来像の像内からは、絹で作られた五臓六腑も発見されています。

この「三国伝来の釈迦如来」は、鎌倉時代に「清涼寺式釈迦如来」として多くの像が模刻されました。

鎌倉極楽寺の本尊や、横浜称名寺釈迦堂の本尊も清涼式釈迦如来です。

北条義時釈迦堂に安置されたのも清涼寺式釈迦如来だったといわれ、その像は杉本寺を経て、現在、東京目黒の大円寺に安置されている像だといわれています。


 京都:清凉寺








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十三まりの法輪寺と渡月橋・・・京都




嵯峨嵐山の法輪寺の本尊は虚空蔵菩薩。

「十三まいり」の寺として知られています。



虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの守り本尊。

したがって、法輪寺に置かれているのは狛牛と狛虎です。






見晴台

見晴台からは渡月橋が見えます。




法輪寺からは京都の観光名所・渡月橋が見えます。

渡月橋は、法輪寺を再興した道昌によって架けられたのが始まり。法輪寺に「十三まいり」する人のために架けられたのだといいます。



「十三まいり」は、大人の仲間入りをした13歳になった子が虚空蔵菩薩の知恵を授かるための行事。

昔から、「十三まいり」を終えたら、渡月橋を渡り終えるまで振り返ってはいけないと伝えられてきたそうです。

振り返ると、せっかく虚空蔵菩薩から授かった知恵が、元に戻ってしまうのだといいます。












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2013年12月21日土曜日

初詣:鶴岡八幡宮の強運掴み矢とおみくじ

強運掴み矢


鶴岡八幡宮は、源頼朝をはじめ、各自時代の武将に尊崇されて「弓矢八幡」と呼ばれた神社。

1063年(康平6年)、石清水八幡宮を勧請して由比郷鶴岡に社殿(由比若宮)を建てた源頼義は、弓と矢を奉納しました。


御神宝として伝えられている朱漆弓と黒漆矢がそれだといわれています。

授与される「強運掴み矢」は、玄関・居間などに置いて、出掛ける前に鏑をつかんで強運を祈るのだそうです。


1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、10月12日、由比郷鶴岡の由比若宮を小林郷北山の地へ遷座しました。

それが現在の鶴岡八幡宮です。

場所の選定にあたっては「おみくじ」を引いて決定したと『吾妻鏡』は伝えています。


鶴岡八幡宮で「おみくじ」を引いて凶や大凶が出てしまったら・・・

凶みくじ納め箱

「強運掴み矢」の下には「凶みくじ納め箱」が用意されています。

「強運掴み矢」を掴んで「おみくじ」を納めれば「凶」を「強」に変えることができます。




新年の参拝
1月1日~4日 24時間(1月4日は午後9時まで)
1月5日以降 午前6時から午後9時まで

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