1173年(承安3年)4月29日、後白河法皇に神護寺再興の勧進を強要した文覚が伊豆国に流され、源頼朝が流されていた蛭ヶ小島に近い奈古谷に庵を結びます。
(伊豆の国市)
(伊豆の国市)
毘沙門堂は、文覚が草庵を結んだ場所と伝えられています。
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『平家物語』によると・・・
日頃、頼朝の許を訪ねて話しをしていた文覚は・・・
ある時、謀反を起こして平家に代わって日本国を従えるよう勧めます。
頼朝が
「池禅尼に命を助けられた身であるから、その恩に報いるために、毎日法華経を唱えるほかは、何もしたいとは思わない」
と答えると文覚は、
「時が巡ってきているのに行動を起こさなければ、かえって災いを受ける」
と言って懐より白い布で包んだ髑髏を一つ取り出しました。
それは、平治の乱後、尾張国野間で家臣の裏切りに遭い暗殺された頼朝の父義朝のものでした。
その後、文覚は都へ上り、院宣を賜って戻ってきたのだとか・・・
(伊豆の国市)
滝山不動明王は、頼朝と文覚が祈願崇拝したことから旗挙不動明王とも呼ばれています。
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