源頼朝は、義経を匿ったことを理由に奥州平泉の藤原泰衡討伐について朝廷に伺いをたてていましたが・・・
なかなか許可が下りません。
御家人を招集してしまった頼朝は、1189年(文治5年)6月30日、大庭景義を呼び出します。
すると、景義は頼朝にこう語ります。
「軍中では、将軍の命令を聞くのであって、天子の命令を待つ必要はありません。
奥州藤原氏は代々源氏の家人です。
綸旨が下されなくとも、部下に罰を与えるのに何か問題がありますでしょうか。
参集している軍隊に日を費やさせることは、良い事ではありません。
早く出陣すべきです」
景義の言い分に、頼朝は鞍付きの馬を与えたのだといいます。
馬を引き連れてきたのは小山朝光。
朝光は、縁側にいた景義に手綱を投げます。
手綱を受けた景義は、郎党に引かせて、頼朝が奥に入った後、朝光に礼を述べました。
その理由は・・・
馬を受け取るには、手綱を受けなければなりませんが、景義は、老人の上、保元の乱での怪我で歩行が思うようになりませんでした。
庭にも降りることができない景義に、朝光が手綱を投げて気遣ってくれたため。
頼朝も朝光の配慮に感心したのだそうです。
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大庭氏は、桓武平氏の血をひく坂東八平氏の一つ鎌倉氏の一族。
大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政を祖としていると考えられています。
(茅ヶ崎市・神明大神宮)
大庭景義は、相模国の大庭御厨の中の懐島郷を本拠とした武将。
1156年(保元元年)の保元の乱で、源為朝の矢を受けて負傷し、家督を弟の景親に譲って懐島郷に隠棲したのだといいます。
1180年(治承4年)の頼朝の挙兵時には、弟の景親と景久は平家方に付きますが、景義は頼朝に味方しました。
鶴岡八幡宮の造営、頼朝の御所の造営を仕切ったのは景義でした。
(茅ヶ崎市)
景義が本拠とした懐島郷は、現在の茅ヶ崎市。
神明大神宮は、館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。
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