比企能員邸址
妙本寺は、比企能員の邸跡に建立された寺院。
比企能員は、武蔵国比企郡を領した豪族。
源頼朝の乳母を務めた比企尼の猶子(甥)。
比企尼は、1160年(永暦元年)3月、頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されると、忠義を尽くすために夫の比企掃部允とともに京都から武蔵国比企郡へ下り、1180年(治承4年)8月に頼朝が挙兵するまでの約20年の間、援助を続けました。
頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉に迎え入れますが、妙本寺の祖師堂の辺りに比企尼の屋敷があったのだといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1182年(養和2年)、二代将軍となる頼家が誕生すると比企能員は乳母父に就任し、1198年(建久9年)には、頼家の側室となった娘若狭局が一幡を出産します。
能員は将軍の外戚として権勢を強めていきますが、それに危機感をもったのが北条時政と北条政子でした。
1203年(建仁3年)7月、頼家が危篤状態となると、頼家を擁する比企能員と実朝を将軍にして実権を握りたい北条時政との対立が激化。
8月27日、頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に譲ることが発表されます。
この措置に反発した能員は、9月2日、若狭局を通じて頼家に時政を追討すべきことを伝えます。
頼家は能員を呼んで討伐の許可を与えますが・・・
頼家と能員の密議は、北条政子に聞かれていました。
通報を受けた時政は、先手をうって能員を自邸に誘き出して暗殺。
暗殺を実行したのは、天野遠景と仁田忠常。
そして、政子の命により北条義時らが比企邸を襲撃したことにより、比企一族は滅亡しました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
比企一族は、頼家の嫡子一幡の小御所に籠もって戦ったのだといいます。
袖塚には、焼け跡から出てきたという一幡の袖が祀られています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
讃岐局とは、頼家の側室で一幡の母である若狭局のことのようです。
比企能員が暗殺された1203年(建仁3年)9月2日の『吾妻鏡』は、能員の娘のことを「将軍家が妾。若君が母儀也。元は若狭局と号す」と記しているので、比企能員の変のときには讃岐局と呼ばれていたのかもしれません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』によると・・・
1260年(文応元年)10月15日、北条政村の娘が物の怪に祟られて悩乱状態となります。
取り憑かれた娘は、様々なことを口走ったといいます。
修験者がその訳を尋ねると・・・
物の怪が現れます。
物の怪は、1203年(建仁3年)9月2日の比企能員の変で井戸に身を投げた比企能員娘・讃岐局でした。
物の怪は、
死んでから大蛇の姿となり、頭には大角があって、比企ヶ谷の土の中で火炎のような熱さに常に苦しんでいる
と語ります。
話を聞いた人は身の毛のよだつ思いだったといいます。
11月27日、北条政村は娘の邪気を祓うため、一日で法華経を書写し、讃岐局の供養を行います。
導師は、鶴岡八幡宮の別当隆弁でした。
隆弁の説法の最中、政村の娘は、
舌を出し、唇を舐め、足を延ばして身悶えをし、まるで蛇身が現れて隆弁の説法を聴聞していたようだった。
といいます。
そして、隆弁の加持祈祷の後、ぼうぜんとなり、眠るようにして祟りから覚めたということです。
その後、北条政村は、比企ヶ谷に蛇苦止堂を建立したのだと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
讃岐局は、比企ヶ谷が燃え上がる中、井戸に身を投げたのだと伝えられています。
その井戸が蛇苦止明神の前にある「蛇苦止ノ井」(蛇形井)。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
仙覚律師は『万葉集』の研究に大きな功績を残した僧。
比企氏の出身とする説があります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
竹御所は、源頼朝と若狭局の娘。
1202年(建仁2年)の誕生。
翌年の比企能員の変後は、北条政子の庇護を受けて育てられ、政子亡き後は政子の後継者として御家人からの尊崇を集め、四代将軍藤原(九条)頼経と結婚しましたが・・・
1234年(天福2年)7月27日、難産のため命を落としました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
室町時代に、佐竹与義主従13名が自刃した場所。
自刃する際、火がかけられたため、住職の日行は、日蓮の描いた曼荼羅を持ち出し、蛇苦止明神の井戸に隠そうとしたところ、蛇が現れ、空には雲が起こって大雨を降らせ、火を消したのだと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河ドラマ