弓馬の礼は、896年(寛平8年)、宇多天皇に命じられた源能有が制定。
能有は、これを貞純親王に伝えます。
そして、貞純親王の子で清和源氏の始祖六孫王経基に伝承され、清和源氏が相伝するようになったといわれています。
経基→満仲→頼信→頼義→義家と相伝された弓馬の技術は、義家の弟義光によって甲斐の武田家・小笠原家に伝えられました。
武田流流鏑馬は、武田信光を祖とする安芸武田家に伝えられた弓馬術。
信光は甲斐源氏5代当主。
父は武田氏初代の信義。
源頼朝に仕えて活躍し、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆とともに弓馬四天王と呼ばれました。
『吾妻鏡』によると
信光は、鶴岡八幡宮の流鏑馬の起源となる1187年(文治3年)8月15日の放生会で射手に選ばれています。
1193年(建久4年)8月16日の流鏑馬では、弓馬四天王がそろって射手に選ばれました。
頼朝亡き後も活躍し、1221年(承久3年)の承久の乱では、東山道の大将軍として兵を率い、乱後には安芸国守護に任じられました。
※安芸国守護に任じられた時期には諸説あるようです。
鶴岡八幡宮の例大祭で奉納される小笠原流流鏑馬は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。
長清は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。
母は杉本義宗の娘(和田義盛の娘という説も。)。
妻は上総広常の娘。
甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜りました。
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