平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆国流罪となったのは、1160年(永暦元年)。
(伊豆の国市)
流された地は蛭ヶ小島とする資料等が多いようですが、当初は伊東荘を領していた伊東祐継(工藤祐継)に預けられていたという説があります。
祐継の死後は、伊東祐親が伊東荘を支配するようになりますが、頼朝は引き続き伊東に住み、祐親の監視下に置かれていたという説です。
(伊東市)
『曽我物語』によると・・・
伊豆国流罪となった頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に、祐親の三女・八重姫と結ばれます。
やがて男児が誕生して千鶴丸と名付けられました。
しかし、大番役から戻った祐親は激怒し、千鶴丸を殺害。
八重姫は、頼朝から引き離され、江間小四郎(小次郎)という者に嫁がされてしまいます。
さらに、祐親は、頼朝も討とうとしますが、祐親の子祐清が頼朝に身の危険を知らせたことで、頼朝は北条時政の邸に逃れることができたのだといいます。
祐清は、時政を烏帽子親とし、頼朝の乳母を務めた比企尼の三女を妻としていました。
『吾妻鏡』によると・・・
祐親が頼朝を殺害しようとしたのは、1175年(安元元年)9月頃のこと。
祐清から知らせを受けた頼朝は、熱海の走湯権現に逃げ込んだことが記されています。
『曽我物語』と『吾妻鏡』の伝えていることが真実で、繋がりがある事であるなら、頼朝は伊東で暮らした後、1175年(安元元年)9月頃に北条へ脱出したということになるのかもしれません。
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(蛭ヶ小島)
北条時政の監視下に置かれることとなった頼朝は、やがて時政の娘政子と結ばれます。
『吾妻鏡』からすると、二人が結婚したのは、長女の大姫が1178年(治承2年)に誕生していると考えられることから、その前年の1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。
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(伊豆の国市:真珠院)
八重姫御堂は、八重姫を祀る堂。
伝説によると、頼朝を忘れることができない八重姫は、頼朝のいる北条館を訪れますが、頼朝は政子と結ばれていたのだといいます。
悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵の渦巻く流れの中に身を投げたのだと伝えられています。
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