以仁王は後白河法皇の第三皇子。
1180年(治承4年)4月9日、源頼政にすすめられ、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発しますが、5月の初旬には平家方に露見。
5月19日、園城寺(三井寺)に逃れますが、5月26日には東大寺や興福寺の僧兵を頼るため南都へと向かいます。
しかし、平知盛、維盛ら2万の軍勢に攻められ、頼政は宇治の平等院で討死。
頼政が平等院で戦っている間、以仁王は興福寺へと向かいますが、木津川の光明山寺の鳥居の前で討たれたのだと伝えられています。
高倉神社は、以仁王終焉の地にある以仁王を祀る社。
高倉神社の隣接地には以仁王の墓があります。
以仁王の墓の南にある浄妙塚と呼ばれる墳墓は、以仁王に従って奮戦した園城寺の僧兵・筒井浄妙の墓とされています。
祇園祭の後祭に巡行する浄妙山の御神体は、筒井浄妙と弟子の一来法師。
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以仁王の平家打倒の計画は失敗に終わりましたが、8月17日には伊豆の源頼朝が挙兵。
甲斐の武田信義や信濃の木曽義仲なども挙兵。
以仁王の死から5年後の1185年(元暦2年)3月24日、平家は壇ノ浦で滅亡しました。
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