鎌倉幕府の草創期に源頼朝に招かれて下向した公家出身の御家人。
政所別当を務めた大江広元の兄なのだという。
頼朝の側近として軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任。
平家追討・奥州征討にも従軍した。
1186年(文治2年)、頼朝に次女の三幡が誕生すると、親能の妻が乳母に就任。
1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、20日には頼家が家督を相続するが、4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定されると親能もその一人に加わえられた。
同年6月30日、三幡が死去したことに伴い出家。
1209年(承元2年)12月18日、京都で卒去(66歳)。
(大津市)
『石山寺縁起絵巻』によれば、 中原親能は頼朝の命により山城国和束における謀反人を追討する際、石山寺に参詣して毘沙門天に戦勝を祈願し勝利を収めたのだという。
その報恩のため、親能は勝南院を建立し、妻の亀谷禅尼は剃髪後に石山寺に住して宝塔院を建立して大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだと伝えられている。
(石山寺)
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2022年の大河は北条義時