忍性は、1232年(貞永元年)、信心深かった母の臨終を機に大和国額安寺に入って出家し、翌年東大寺の戒壇院で受戒。
1240年(仁治元年)、叡尊を師と仰ぎ奈良西大寺に入って「律」を学びます。
1261年(弘長元年)、鎌倉の新清涼寺釈迦堂に住み、翌1262年(弘長2年)、北条業時の招きによって多宝寺に住持。
1267年(文永4年)には極楽寺の開山に迎えられ(51歳)、以後37年間にわたって極楽寺で過し、律の布教と慈善救済事業に力を注ぎました。
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幕府にも重用され声望を得ていた忍性。
そんな忍性がたてたのが10種の大願。
1 | 三宝(さんぽう:仏・法・僧)を紹隆すること。 |
2 | 勤行・談義などを怠らないこと。 |
3 | 三衣一鉢(さんねいっぱつ:三種の衣と一つの鉢(食器))を持ち遊行にのぞむこと。 |
4 | 病気でない限り輿や馬に乗らないこと。 |
5 | 特定の檀那の保護を受けないこと。 |
6 | 孤独・貧窮・乞食人・病者・盲人等や牛馬の路頭に捨てられたものに憐れみをかけること。 |
7 | 道を造り橋をわたし井を掘り薬草・樹木などを植えること。 |
8 | 自分を怨み謗る者へも善友の思いをなすこと。 |
9 | 点心(間食)・調理に手間をかけた食物を断つこと。 |
10 | 願行功徳は一身にとどめず十方界の衆生に施与すること。 |
忍性は、この大願のとおりの活動をしています。
極楽寺の境内には、施薬悲田院、病宿、療病院などの救済施設が設置されていたといいます。
主な事業を挙げてみますと・・・
1274年(文永11年)、飢饉で苦しむ難民を大仏ヶ谷に集め粥を施しました。
1284年(弘安7年)、永福寺・明王院・高徳院の別当となって寺院の修営を手掛けています。
(※忍性が手掛けた伽藍修営は、全国で83ヶ所にのぼったといわれています。)
1287年(弘安10年)、長谷寺と高徳院の中間辺りに桑ヶ谷療養所を開設し、多くの者の治療を行いました。
1298年(永仁6年)、坂ノ下に馬病舎を設置しました。
忍性によって開かれた桑ヶ谷療養所は、北条時宗の要請によって置かれました。
時宗からは療養所の運営費用のために、土佐国(高知県)大忍荘が寄進されたといいます。
そして、和賀江嶋の管理と引き換えに関税を徴収する権利も与えられました。
これも福祉活動を任されたことに対する特権だったのでしょうか・・・。
忍性は、病人や貧民の救済だけでなく、極楽寺切通の開削や道路・橋の整備などの土木事業も行い、雨乞いの祈祷などの救済活動も行いました。
一生の間に行った架橋は189ヶ所、道路修築は71ヶ所、井戸掘りは33ヶ所、浴室・療養所・乞食屋の設置は各々5ヶ所といわれています。
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四天王寺は聖徳太子の創建と伝えられる寺院。
聖徳太子は四天王寺創建にあたって「四箇院の制」をとったのだといいます。
「四箇院」とは、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)のこと。
敬田院は、修行の道場(寺そのもの)
施薬院は、薬を施す施設(薬局)
療病院は、病者の収容施設(病院)
悲田院は、身寄りのない老人などを保護施設
真言律宗の僧で、社会福祉事業に力を尽くした忍性は、聖徳太子の「四箇院の制」に感銘を受け、1294年(永仁2年)に四天王寺の別当に就任すると、悲田院・敬田院を再興させたのだと伝えられています。
四天王寺の西大門前の石鳥居は、木造だったものを忍性が建て替えたもの。
当時の西大門は極楽への入り口として信仰されていたことから、病人や乞食など、救済を求める多く者が集まっていたのだといいます。
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箱根町元箱根の精進池畔に建てられている安山岩製の宝篋印塔は、多田満仲のものと伝えられています。
刻銘によれば、1296年(永仁4年)、大和国の石工大蔵安氏によって造られました。
この宝篋印塔は関西形式から関東形式に移行する最初の塔であるともいわれています。
そして、石工心阿の追刻によると、1300年(正安2年)には極楽寺の忍性が供養の導師を勤めています。
心阿は大蔵安氏の子で、安氏が宝篋印塔製作の途上で死去したため、心阿がその跡を受け継いで完成させたのだといいます。
忍性は、大和国の大蔵派の石工集団を率いて、建設や土木事業を行っていました。
当時、安山岩を加工する技術を持った者は関東にはいなかったようです。
参考までに、鎌倉の安養院にある良弁尊観のものと伝えられる宝篋印塔にも、心阿の名が刻まれています。
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1303年(嘉元元年)7月12日、極楽寺で示寂。
遺骨は額安寺(奈良)、竹林寺(奈良)と極楽寺の3ヶ所に埋葬されたのだといいます。
1328年(嘉暦3年)、後醍醐天皇より菩薩号を勅書をもって許されました。
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