(埼玉県嵐山町)
木曽義仲は源義賢の次男。
幼名は駒王丸。
1154年(久寿元年)、武蔵国の大蔵館で誕生したと考えられ、埼玉県嵐山町の鎌形八幡神社境内に湧き出す清水は、義仲の産湯に使用されたと伝えられています。
誕生の翌年、父の義賢が源義平に討たれると、駒王丸は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国木曽へ逃れ、乳母夫の中原兼遠のもとで育てられます。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると義仲も挙兵。
1183年(寿永2年)3月には、頼朝と対立しますが嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出して和睦。
その年の5月には、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させ、7月には平家一門を都落ちさせて入京します。
倶利伽羅峠の戦い
しかし、後白河法皇と対立し、法皇は鎌倉の頼朝を頼ります。
翌1184年(寿永3年)、頼朝は、義仲追討のため源範頼と源義経を派遣し、正月20日、範頼が瀬田から義経が宇治から京の義仲を攻めます。
(大津市)
(宇治市)
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範頼と義経に攻められた義仲は、わずかな兵を連れて京を脱出しますが、近江国粟津で討たれました。
(大津市・義仲寺)
義仲寺は、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられています。
(京都:八坂の塔)
義仲の首は六条河原に晒された後、家臣によって葬られたのだと伝えられています。
八坂の塔には義仲の首塚があります。
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鎌倉の頼朝は、義仲を討つと、人質として鎌倉にいた義仲の嫡子・義高も殺害します。
(鎌倉・常楽寺)
常楽寺裏山にある木曽塚は木曽義高の墓と伝えられています。
(狭山市)
清水八幡宮は、義高終焉の地に建てられた社。
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鎌倉との繋がりを求めて。
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