別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2018年9月30日日曜日

源義経の妾となった平時忠の娘・蕨姫

『吾妻鏡』には、源義経が平時忠の娘を側室としたことが記録されています(1185年(文治元年)9月2日条)。

娘の本名は不明ですが、能登国の伝承では蕨姫と呼ばれているようです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『平家物語』によると・・・

平時忠は、源頼朝に知られてはまずい機密文書を源義経に没収されていたようです。

そこで長男の時実に相談すると・・・

女房たちが訴え嘆くこと好まない義経の性格を利用して、21歳の娘を義経に差し出すこととします。

少し歳はいっていましたが、美人で気立てもよかったので、義経も正妻の郷御前を別の場所に移して、娘を宿に住まわせたのだそうです。

そして、娘が機密文書のことを義経に話すと、義経は封も解かないまま時忠に返したのだとか。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

義経がいつ蕨姫を側室としたのかは不明ですが、おそらく義経と頼朝の対立が決定的となった1185年(文治元年)6月以降なのかと思われます。

婚姻の理由には、時忠と連携して頼朝に対抗するためという説もあるようです。

しかし、義経は11月3日、頼朝の厳しい責めから逃れるため都落ち。

その後、蕨姫がどうなったのかは不明。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

蕨姫の父平時忠は「平家にあらずんば人にあらず」という発言で知られる公家。

1185年(元暦2年)3月24日、平家が壇ノ浦で滅亡すると、時忠は義経に捕えられ、捕虜として都に戻っていました。

『吾妻鏡』によると・・・

4月26日、平宗盛らとともに京都へ送られ、源義経邸に入った時忠は、5月20日に能登国流罪とされます。

ただ、すぐに配所へは赴かす、しばらく京都にいた後、9月になって能登国へ下向したようです。

1189年(文治5年)2月24日、能登国で死去。


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