別冊『鎌倉手帳』




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2011年5月22日日曜日

七里ヶ浜

七里ヶ浜は、小動岬から稲村ヶ崎までの約2.9㎞の海岸です。かつては「七里灘」、「七里浜」とも呼ばれていました。

「日本の渚100選」に選ばれています。


砂浜は平地を歩くのより骨が折れることから「七里灘」と呼ばれたともいいます。
七里ヶ浜は風も強く難所であったことは確かなようです。

1185年(元暦2年)、平氏を壇ノ浦に滅亡させ鎌倉に凱旋しようとした源義経は、兄源頼朝に鎌倉に入ることを許されませんでした。

頼朝は、義経が鎌倉に入ることを阻止するための関所を金洗沢に設けたといいます。

1221年(承久3年)、『海道記』の著者ともいわれる源光行が金洗沢で処刑されそうになりました。

1252年(建長4年)、固瀬宿(片瀬)に到着し幕府からの出迎えを受けた後嵯峨上皇の皇子宗尊親王は、この浜を通って稲村ヶ崎を越え鎌倉に入ったといいます。

1271年(文永8年)、龍ノ口刑場へと護送される日蓮が通ったのもこの浜だったのでしょうか?腰越の法源寺には、老婆の「ぼたもち伝説」が残されています(参考:龍ノ口法難とぼたもち寺)。

1333年(元弘3年)、稲村ヶ崎を越えて鎌倉に攻め入った新田義貞によって鎌倉幕府は滅ぼされました(参考:鎌倉幕府の滅亡)。

1450年(宝徳2年)、鎌倉公方足利成氏と山内上杉家の長尾景仲との合戦が行われ、小山一族80人余が戦死しています(参考:享徳の乱)。



江戸時代には、葛飾北斎や安藤広重が七里ヶ浜からの景色を描きました。


稲村ヶ崎周辺には茶店が並んでいたようです。

茶店には絵図売り婆さんがいたそうで・・・
(参考:稲村ヶ崎・磯づたいの道

1880年(明治13年)、ドイツ人医師のエルウィン・ベルツは、七里ヶ浜を結核療養の最適地として紹介しました。

1910年(明治43年)、逗子開成中学の生徒12人が七里ヶ浜沖で遭難する事故が発生しています。

稲村ヶ崎には、水難の碑が建てられています。
(参考:ボート遭難の碑


「真白き富士の嶺(七里ヶ浜の哀歌)」は、逗子開成中学の系列校「鎌倉女学校」の三角錫子教諭による作詞です。

12人の少年達の合同葬儀でこの歌が合唱されたそうです。

1927年(昭和2年)、ロシア出身のバレリーナ霧島エリ子(エリアナ・パブロバ)は、七里ヶ浜にバレエの稽古場を開きました。七里ヶ浜日本バレエの発祥の地」と呼ばれています。



1951年(昭和26年)、哲学者西田幾多郎の歌碑が建てられました。

西田幾多郎歌碑
「七里濱 夕日漂ふ波の上に 伊豆の山々果ししらずも」
西田幾多郎は稲村ヶ崎の姥ヶ谷に住んでいました

砂鉄が多く含まれた七里ヶ浜の砂

七里ヶ浜の砂は、砂鉄を多く含んでいることで知られていました。

『新編鎌倉志』には「鉄砂(くろがねずな)あり、黒き事漆の如し」と記されているようです。

現在でも稲村ヶ崎付近の砂浜は黒く光っています。

鎌倉で鍛冶産業が盛んになったのは、七里ヶ浜で採れる砂鉄があったからといわれています(参考:針磨橋)。

名刀正宗で知られる五郎入道正宗も七里ヶ浜の砂鉄を使ったのでしょうか?(参考:正宗工芸


黒い砂浜




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