宇治川先陣の碑・・・佐々木高綱と梶原景季の先陣争い
1184年(寿永2年)1月20日、 源義経 は木曽義仲を討つため宇治川から京へ入ります。 このとき繰り広げられたのが 佐々木高綱 と 梶原景季 の先陣争いです。 2人は、出陣前に 源頼朝 から名馬を与えられていました。 佐々木高綱 が「生食」(いけづき)、 梶原景季 が「磨墨」(するすみ)。 『平家物語』によれば、 梶原景季 は、 頼朝 に「生食」を所望しますが、「この馬は万が一の時、頼朝が甲冑を着けて乗る馬であるから、磨墨ではどうか。磨墨も生食に劣らない名馬であるぞ」といって「磨墨」を与えたといいます。 磨墨像 (東京大田区: 万福寺 ) ところが・・・ 佐々木高綱 が出陣する際に 頼朝 のところへ挨拶に来ると、「生食を所望する者は大勢いるが・・・」 といって「生食」を高綱に与えてしまいます。 感激した高綱は、「この御馬で宇治川の先陣を承るつもりです。もし私が討死したとお聞きになったときは、先陣は他の者に渡したとお思い下さい。生きているとお聞きになられたならば、先陣は確かに高綱が切ったとお思い下さい」といって 頼朝 の前を下がったといいます。 生食像 (東京大田区: 洗足池 ) その後、進軍する追討軍の中で、 高綱 が「生食」に乗っていることを知った 景季 は、「頼朝から恥辱を与えられた」として、高綱を殺して自分も自害しようと考えます。 しかし、 高綱 が機転を利かせて、「宇治川を渡るためには、屈強な馬が必要だったので、頼朝様の生月を盗んで参上した」と言うと、 景季 は、「そうであれば、景季も盗んでくればよかった」と言って笑ったといいます。 ~宇治川の先陣争い~ 宇治川の戦いは、1月の事でしたので、雪解け水もあって水位が上昇していました。 雪解け水で水位が上昇していた宇治川をどのように渡河するか 源義経 が考えていると、 畠山重忠 が「瀬踏みをいたしましょう」といって、五百余騎の轡を並べていました。 すると、 平等院 北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を激しく走らせて出てきます。 梶原景季 と 佐々木高綱 でした。 このとき 景季 は、 高綱 より一段ほど先に進んでいたといいます。 高綱 は、「腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい。」と 景季 に