別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2010年12月24日金曜日

明王院から瑞泉寺への古道

十二所の明王院(五大堂)の裏山から、山の反対側の瑞泉寺まではハイキングコースで結ばれています。

途中に「初め弁天」と呼ばれる石の祠や、大江広元墓と伝えられている層塔があります。


明王院(五大堂)
1235年(嘉禎元年)、四代将軍藤原頼経によって創建されました。
五大明王を祀る壮大な寺院だったようですが、
江戸時代には不動明王像のみを残して焼失してしまいました。
現在は、本堂に鎌倉時代の不動明王像と、
江戸時代の四大明王像が安置されています。

明王院横のこの道を行くとハイキングコースです。

天園ハイキングコースに通じていますので、
などにも行くことができます。

この階段を上がると本格的なハイキングコースです。

上り終えると尾根道です。竹のトンネルもあります。

初め弁天
金沢方面から来た江の島詣の旅人が、
初めてお詣りする弁天さまだったということで、
初め弁天と呼ばれているそうです。
https://www.yoritomo-japan.com/page042hajime-benten.htm

分かれ道
初め弁天から尾根道を進むと分かれ道があります。
左は山を上る道になりますが、ここを上ると大江広元の墓です。
気を付けないと見落としてしまいます。
特に瑞泉寺方面からの逆コースの場合は見落としがちです。

伝大江広元墓
江戸時代に毛利家の家老が大江広元墓を探しにきたそうです。
そのとき、村人に対して威張り散らしていたので、
腹を立てた村人が墓を隠してしまったという伝説が残されています。

大江広元の層塔の奥のこの木の間を進んでもいいのですが、
少し険しい道を下りる必要があるので、
一度、分かれ道まで戻った方が無難です。

途中、このような景色を見ることが出来ます。

分かれ道
右が天園ハイキングコース建長寺へと通じています。
左は瑞泉寺への道です。

案内標識です。


この坂を下りれば瑞泉寺です。

瑞泉寺側のハイキングコース入口です。

瑞泉寺です。


鎌倉手帳
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2010年12月23日木曜日

鎌倉「冬紅葉」~瑞泉寺~

鎌倉の瑞泉寺の紅葉は、毎年12月に入ってからが見頃です。
今日は、12月23日の天皇誕生日です。
どうかなぁ~と思いましたが、まだ見頃です。

















新しくなった総門。


鎌倉:紅葉・黄葉の名所
http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/koyo-kamakura.htm
鎌倉手帳
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

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江島霊迹建寺の碑~宋国伝来の古碑~

この石碑は、1204年(元久元年)、源実朝が宋に使節を送った際に、慶仁禅師から贈られた石碑と伝えられています。

その使節の引率者が辺津宮を創建した良真だったと伝えられていますが、実際に使節が送られたのかどうかは定かではありません。

※良真は、鶴岡八幡宮の供僧で、「聖天島の天女伝説」と「蟇石伝説」の僧です。


江島霊迹建寺の碑

横には「宋国伝来の古碑」の標札が建てられています。

伝説によると・・・

源実朝は12名の使節を宋国に送ったのだといいます。

その使節の引率役を務めたのが良真でした。

宋に渡った良真は、慶仁禅師に会い、江の島の地図を見せようとしたところ、

禅師は、

「東の名刹であることは聞かなくてもしっています。」

といって碑石をくださったそうです。

それが、現在辺津宮にあるこの石碑だということです。



聖天島https://www.yoritomo-japan.com/enosima-shotensima.htm
蟇石と無熱池https://www.yoritomo-japan.com/enosima-gama-munetu.htm
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慈悲上人良真の伝説2~蟇石(がまいし):江の島~

江島神社の入口で竜宮城を模して造られたという瑞心門の左側には、「蟇石」(がまいし)と呼ばれる岩があります(エスカー乗場の横の崖の上です。)。

慈悲上人と呼ばれた良真が、江の島で修行を積んでいると、蟇(がま)に修行の邪魔をされたので、一生懸命に祈ると蟇が石になってしまったという伝説が残されています。

※蟇(がま)というのは「ヒキガエル」のことだと思います。
※良真は、聖天島の天女伝説の僧です。江島神社の辺津宮を創建しました。


この岩が蟇石(がまいし)です。
「良真が法力念力で蟇を石に化した」と立札に書かれています。

蟇石の下にある池は無熱池(むねつち)と呼ばれています。
インド(天竺)に伝わる無熱池を真似たもので、
龍が住み、どんな日照りでも水が涸れたことがなかったと伝えられています。
参考までに・・・
大船の常楽寺にも色天無熱池があって、
江の島弁財天に関係のある乙子童子の伝説が残されています。


聖天島
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蟇石と無熱池
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2010年12月22日水曜日

慈悲上人良真の伝説1~聖天島(江の島)~

神奈川県立女性センターの手前にある聖天島は、かつては、江の島とは海を隔てた別の島でした。しかし、関東大震災のときに海底が隆起して陸続きとなりました。

昭和39年には、江の島が東京オリンピックのヨットレースの会場となったことから、ヨットハーバー整備のために周辺の海が埋め立てられ、現在のように島の頭部のみが残される状態となったのだそうです。

最近は猫の島としても人気があるようで・・・。


聖天島は「天女出現の伝説」で知られる島でした。

鶴岡八幡宮の供僧で慈悲上人と呼ばれた良真は、
江の島での修行中に、この島に天女が現れたのを見たといいます。

良真は、のちに辺津宮(江島神社)を創建します。
昔は、辺津宮に開山堂があって、そこに良真の木像が安置されていました。
今は、聖天島公園にある社にその木像が安置されています。

現在の聖天島は公園として整備されています。



聖天島
https://www.yoritomo-japan.com/enosima-shotensima.htm

蟇石と無熱池
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鎌倉手帳
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2010年12月21日火曜日

鎌倉・江の島七福神



七福神巡りは、江戸時代頃から新年の行事として人気を集めてきました。鎌倉・江の島七福神は、八箇所の寺社を巡拝します。

スタートを浄智寺江の島にすると巡拝しやすいかと思います。



JR北鎌倉駅から浄智寺へ

浄智寺
https://www.yoritomo-japan.com/page138jyotiji.htm

浄智寺の福神は、弥勒菩薩の別の姿といわれる布袋尊です。
境内にある洞窟に安置されています。

浄智寺の布袋尊~布袋和尚と弥勒菩薩~


浄智寺から鶴岡八幡宮へ

歩いて移動できます。北鎌倉の禅寺を巡りながらでも、
ハイキングコースを利用しながらでも、
体力に合わせた方法で鶴岡八幡宮を目指します。
(バスも通っています。)

鶴岡八幡宮旗上弁財天社
https://www.yoritomo-japan.com/page041hataagebenzaiten.htm

源氏池に浮かぶ島の一つにある旗上弁財天社は、その名のとおり弁財天をお祀りしていました。

しかし、弁財天は仏教の神ですので、旗上弁財天社は明治の神仏分離によって破壊されてしまいます。

現在の社は、昭和55年に復元されたものです。

現在も弁財天像は安置されていませんが、鎌倉国宝館に寄託されています。

良縁・縁結びの旗上弁財天社



鶴岡八幡宮から宝戒寺へ

鶴岡八幡宮前の交差点を左に進めば突き当たりが宝戒寺です。
(参考:横大路 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm

宝戒寺
https://www.yoritomo-japan.com/page043hokaiji.htm

北条氏の館跡だったという宝戒寺には毘沙門天が祀られています。

毘沙門天は多聞天とも呼ばれ、東西南北の四天王の一つとしても知られています。



宝戒寺から妙隆寺・本覚寺へ

宝戒寺から小町大路を南下すれば妙隆寺本覚寺があります。

妙隆寺
https://www.yoritomo-japan.com/page043myoryuji.htm

「鍋かむり日親」ゆかりの妙隆寺には、寿老人が祀られています。

本堂前のお堂に「欅の一本彫り」といわれる尊像が安置されています。


本覚寺
https://www.yoritomo-japan.com/page043honkakuji.htm

東身延と呼ばれる本覚寺では、源頼朝の伝説がのこされた夷神を祀っています。

明治の神仏分離によって夷堂が移転させられ蛭子神社となりましたが、昭和58年、本覚寺の境内に再び建てられました。

正月1日から3日まで「初えびす」、10日には「本えびす」が開かれます(鎌倉えびす)。



本覚寺から長谷寺へ

本覚寺から長谷寺まで歩いて行くこともできます。
鎌倉駅からは江ノ電がありますし、バスも通っていますのでお好きな方法で・・・
歩いて行かれる方は、長谷小路の散策を参考に。

長谷寺
https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm

長谷寺の大黒天像は、神奈川で一番古い尊像といわれています(現在は宝物館に収蔵されているとのことです。)。

弘法大師が修行したという弁天窟もありますので一緒にお楽しみください。

鎌倉:長谷寺の大黒天



長谷寺から御霊神社へ

長谷寺の駐車場から出る御霊神社はすぐです。

御霊神社
https://www.yoritomo-japan.com/page136gorei.htm

鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社には、福禄寿の面が祀られています。

9月18日の例祭で行われる面掛行列の中に、福禄寿も入っています。



御霊神社から江の島へ

長谷駅から、または、極楽寺駅から江ノ電に乗ります。
歩いて行けなくもないですが、この道のりはかなりあります。



江島神社
https://www.yoritomo-japan.com/enosima-benzaiten.htm

江島神社辺津宮にある奉安殿には、源頼朝が勧請したともいわれる「八臂弁財天」と、裸像として知られる「妙音弁財天」が祀られています。

江の島は、江戸時代には弁天信仰が盛んになり、各地からの参詣客で賑わいました。



~男女で弁財天を参拝すると別れるという噂が・・・~


この頃、このような事が言われているのかどうか知りませんが、おそらく40代以上の方々の中には、「江の島は男女と行くと別れる」などという噂を聞いたことがあるのではないでしょうか。

(私が40代なので40代以上と書きました。特に意味はありません。)

これは、「弁天さまが女だから、嫉妬して・・・」という話から来ているようです。

では「何故このような話が・・・」が広まったのでしょうか。

江戸時代、江の島詣が盛んに行われていたときの話ですが、男が江の島詣に行くときに、妻や恋人を連れていては不都合な事があったからなんです。

江の島詣の帰りに「保土ヶ谷宿」辺りで遊興するために、女性を同伴していたのでは都合が悪かったのですよ。

まーず、遊ぶために弁天さまを利用するとはふざけたお話しです。



~御朱印~


御朱印帳や色紙が用意されていますので、お守りとして残しておくのもよろしいかと思います。

また、掛け軸や額仕立てにするための和紙も販売しています。
御朱印を頂いた和紙を表装して掛け軸や額に入れると立派なお守りとなります。


 七福神御朱印



鎌倉・江の島七福神巡り(鎌倉手帳)

2010年12月20日月曜日

六代御前の墓~盛者必衰の歴史:逗子~

六代御前とは、壇ノ浦に沈んだ平維盛の子で、「六代」という名には、平正盛から数えて六代目の直系という意味があるといいます。




1183年(寿永2年)、源義仲に攻められた平氏(平家)及び一族は「都落ち」しますが、維盛は、妻子を都に残していったそうです。

この時点で、維盛は「平氏の時代は終わった」と思っていたのかもしれません。

あの平重盛の子ですから、先々まで読んで行動していたでしょう。

そして、1185年(文治元年)3月、平氏は壇ノ浦で滅亡します。

六代御前は、源頼朝の命によって平氏の残党を探索していた北条時政によって捕らえられてしまいました。

しかし、本来であれば、鎌倉に送られ斬首されるはずの六代御前は、文覚によってその命を救われます。

『平家物語』の伝えるところによれば、文覚頼朝に助命嘆願し、「赦し文」を手に入れたとなっておりますが、

『吾妻鏡』によると、

文覚の弟子によって、

「六代御前は文覚の弟子であるのに斬首しようとしている。
祖父の重盛はあなたの命を助けてくれた方でしょう。
重盛への恩と文覚との縁をもって、文覚に預けてもらいたい。」

という内容の事が伝えられたようです。

そして、文覚の申し分を無視するわけにもいかないので、「当分の間、文覚に預ける」とした旨の手紙が北条時政の所へ送られたようです。


いずれにしても、命を助けられた六条御前は、出家して「妙覚」となり、「三位禅師」と呼ばれるようになります(父維盛は「三位右近衛権中将」だった。)。

1194年(建久5年)、鎌倉を訪れた妙覚が頼朝に謁見したとも伝えられています。

しかし、1199年(建久10年)1月13日、妙覚を助けた頼朝がこの世を去ります。

それから、わずか1ヶ月後、最大の庇護者である文覚も「三左衛門事件」の際に捕らえられ佐渡国流罪となりました。

そして、妙覚も捕らえられ、田越川で処刑されたと伝えられています。いつ捕らえられ、いつ処刑されたのかは不明です。

庇護者の文覚は、佐渡国流罪後に許されますが、再び捕らえられ対馬国に流される途中に死んだというのが通説となっています(1205年(元久2年))。




祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ



六代御前の墓



鎌倉手帳



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