別冊『鎌倉手帳』

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2010年12月30日木曜日

怪僧文覚と源頼朝~鎌倉:人物と歴史~



文覚という僧侶は、実在した人物ですが、かなり伝説的な人物として歴史上の各所に登場しています。

文覚は、もとは遠藤盛遠という北面の武士でしたが、19歳のときに突然出家します。

その理由は・・・

盛遠は、渡辺渡の妻袈裟御前に懸想します。

言い寄られて困った袈裟御前は、

「夫の寝所を盛遠に教えて、これを討つように促すと、自分が身代わりとなって殺された」

という話が残されています。

つまり、袈裟御前を殺してしまったことが出家の理由ということのようです。



~文覚の荒行~

『平家物語』には・・・

「藪の中で、あぶ・蚊などの毒虫に刺されながら8日間過ごした」とか、

「厳寒の中、那智の滝に打たれ息絶えてしまうが、天から降りてきた童子に助けられた」

という文覚の荒行の様子が描かれています。


 文覚荒行像
(成就院・模造)


~源頼朝と文覚の出会い~

全国で修行を積んで京に戻った文覚は、京都高尾山で修行を続けていました。

荒れ果てていた神護寺の再興を思い立ちますが、後白河法皇に強訴したことにより伊豆国へ流されます。

そのとき、伊豆国の蛭ヶ小島には源氏の嫡流源頼朝が流されていました。

文覚は、その蛭ヶ小島からそう遠くない奈古谷に庵を結んだと伝えられています。


 伊豆の国市毘沙門堂

伊豆の国市奈古谷の毘沙門堂は、伊豆に流された文覚が住んでいた場所と伝えられています。

 毘沙門堂

 毘沙門堂

文覚が伊豆国に流されたのは、1173年(承安3年)のことで、文覚は34歳、頼朝は26歳のときでした。


~伝説!頼朝の挙兵と文覚~

文覚との出会いからおよそ7年後、頼朝は源氏再興の挙兵をします。文覚はその前に赦免されていますので、頼朝挙兵の際に伊豆にいたかどうかは不明です。


『平家物語』では・・・

文覚は、謀叛を起こして全国を従えるように頼朝を促します。

一方、頼朝

「今は朝敵となっている身だから、それが許されなければ謀叛などできない」

ことを告げます。

すると文覚は、

「後白河法皇から院宣を給わり、頼朝のもとに持ってきた」

と伝えられています。

そして、頼朝はこの院宣を掲げて挙兵したと伝えていますが、実際は、以仁王の令旨を掲げての挙兵だったということでしょう。


文覚上人流宮之跡碑
(伊豆の国市毘沙門堂)

頼朝と政子の伝説が残る夫婦石
(伊豆の国市毘沙門堂)

護摩石
(伊豆の国市毘沙門堂)

 毘沙門堂


~六代御前を助けた文覚~

1185年(文治元年)、長門壇ノ浦で平氏が滅亡します。
そのときに海に沈んだ平維盛には、六代御前と呼ばれた子がいました。

平清盛の曾孫(直系の子孫)ということで、京に潜んでいるところを北条時政によって捕らえられてしまいます。

そこに現れたのが文覚で、頼朝から助命の許しを得て神護寺で預かるととしました。

しかし、1199年(建久10年)、頼朝がこの世を去り、さらに文覚も佐渡国流罪となると、妙覚と名乗っていた六代御前も捕らえられ田越川(逗子市)で処刑されたと伝えられています。


 六代御前の墓
(逗子市)

実際に、六代御前がいつ捕らえられ、どこで処刑されたかは不明です。

文覚は、佐渡国流罪後に許されますが、再び捕らえられ対馬国に流される途中に死んだと伝わっています(1205年(元久2年))。


~頼朝と文覚が創建した寺社~


 補陀洛寺

補陀洛寺は、1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として建立されたと伝えられています。

文覚が開山です。


 江の島弁財天

1182年(寿永元年)、源頼朝文覚に命じて江の島に弁財天を勧請しました。


~文覚上人屋敷跡碑~

 文覚上人屋敷跡碑

滑川の大御堂橋の袂にある石碑です。

文覚の屋敷があったと伝えられ、この付近を流れる滑川は「坐禅川」と呼ばれていました。< 近くには源頼朝の三大寺院の一つ勝長寿院がありました。


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