1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇が崩御。
生前、一条天皇は土葬を望み、父の円融天皇の御陵(円融天皇 後村上陵)の近くに葬られることを望んでいたのだといいます。
しかし・・・
藤原道長は火葬にしてしまいました。
一条天皇は左大文字山の山蔭で火葬され、遺骨は東山の円成寺に安置されました。
その後、金輪寺に埋葬する予定でしたが・・・
道長が一条天皇の言葉を思い出したため・・・
そのまま円成寺に安置し、三年後に円融天皇の御陵あたりに埋葬することとなったのだといいます。
何故三年後なのか?
西方に大将軍があったため。
大将軍(金星の精)のいる所は万事にとって凶で、同じ方位に三年間留まるらしい。
そのため、三年塞がりの大将軍と呼ばれるのだとか。
しかし、遺骨が望みのとおり円融天皇の御陵の近くに埋葬されたのは、崩御後9年経った1020年(寛仁4年)6月16日のことでした。
📎一条天皇の火葬と埋葬
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1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子が葬られたのは鳥戸野陵。
本人の望みにより土葬とされました。
もしかしたら一条天皇は、定子と同じように葬られたかったのかも。
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