別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年2月13日日曜日

ボート遭難の碑~稲村ヶ崎~

逗子開成中学の生徒が七里ヶ浜沖で遭難したのは、明治43年1月23日のことでした。

逗子開成中学は、当時の校長が海軍将官だったため、海軍軍人の子弟が多く通っていた学校だったといいます。

この日は、少年たちは、軍艦松島から払い下げられたカッターで江の島までの旅に出ますが、その帰路、行合橋を過ぎたあたりで転覆事故に遭ってしまいます。

ボートには十二名の少年たちが乗っていました。中には小学生もいたそうです。


ボート遭難の碑

遭難事故は、江の島七里ヶ浜の漁村で目撃され、いっせいに半鐘が打ち鳴らされ、漁師たちが悪天候の中、漁船を繰り出しますが、海に投げ出された少年たちを発見することはできませんでした。

転覆と同時に少年たちの姿は見えなくなっていたそうです。



冬の七里ヶ浜の海は、急に悪天候となり寒冷な西風に襲われることがあるそうです。

逗子開成中学の生徒たちは、江の島を出るときに漁師に止められたそうですが、当時の校風がボートを海へと漕ぎ出させます。

遭難事故の翌日、横須賀軍港から掃海艇が派遣され、十二名の遺体が発見されました。

その遺体の中には、中学生の兄が小学生の弟をしっかりと抱きかかえた姿もあったそうです。



この遭難事故は、「真白き富士の峰、緑の江の島」の歌で知られていますが、この歌詞は、鎌倉女学校の三角錫子教諭によって作られました。

そして、逗子開成中学での合同葬儀の際に、鎌倉女学校の生徒たちによって合唱されたとそうです。



稲村ヶ崎の慰霊碑は、逗子開成学校同窓会によって建立されました。

以前は、行合橋のたもとに卒塔婆があったそうですが、現在はないようです。


行合橋



稲村ヶ崎
https://www.yoritomo-japan.com/page136inamura.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html