仁科盛遠は、信濃国安住郡仁科荘の住人。
『北条九代記』によると・・・
息子の太郎とともに熊野詣をした際、ちょうど後鳥羽上皇も熊野に参詣していました。
太郎はたいそうさわやかな童であったので、後鳥羽上皇は召し抱えることに。
盛遠は「我が子が院から召されることは大変な名誉」として、太郎とともに院御所に参上して西面の武士として仕えたのだといいます。
しかし・・・
北条義時は
「幕府に仕える御家人が許しもなく院中に仕えるのは理解に苦しむ」
として盛遠の二ヶ所の領地を没収。
盛遠の訴えによって後鳥羽上皇が土地を返還するよう院宣を下しますが、義時は聞き入れなかったのだそうです。
その後・・・
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が北条義時追討のための兵を募ると、盛遠は朝廷方に付き、越中国礪波山で北条朝時の幕府軍と戦い敗死したのだと伝わります。
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