『吾妻鏡』によると、1219年(承久元年)7月19日、左大臣九条道家の子三寅が鎌倉へ下ってきました。
三寅は2歳。
母は、西園寺公経の娘掄子(りんし)。
掄子は、源頼朝の姉妹坊門姫の孫。
北条政子が頼朝の縁を大事にして、その後継ぎとして鎌倉へ下向するよう願ったのだといいます。
昼頃に鎌倉へ入った三寅は、北条義時の大倉亭に到着したのだそうです。
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三寅は、建保6年1月16日の寅刻に誕生。
生まれたのが寅年・寅月・寅刻だったので三寅と呼ばれたのだそうです。
のちの四代将軍九条(藤原)頼経です。
宝戒寺入口の石碑には「北条九代屋敷 頼経公已後代将軍家鋪」と刻まれています。
明王院の門前の庚申塔には「源頼朝卿四代将軍源頼経卿御建立地」と刻まれています。
頼経は源姓に改めのか???
『年報中世史研究』という学術雑誌の中の論文には、頼経が将軍となる際、「藤原姓から源姓に変えるかどうか議論された」ということが書かれているようです。
征夷大将軍宣下を得るために上洛した佐々木信綱は、頼経の改姓について、その判断を仰ぐため、藤原氏の氏神春日大社へも派遣されたともいいます。
結局、春日大社の判断により改姓はなかったようですが・・・。
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