940年(天慶3年)2月14日、自らを「新皇」を称して東国で反乱を起こした平将門が藤原秀郷、平貞盛らにより討伐されました。
伝説によると、討たれた将門の首は、京都で晒されますが、3日後に白光となって舞い上がって飛び去ったのだといいます。
そして、飛来したのが武蔵国豊嶋郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)。
恐れた村人たちは、塚を作って埋葬したのだといいます。
それが将門塚。
その後、将門の霊は、塚の傍らにあった神田明神に奉祀されています。
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将門の霊が祀られた神田明神は、江戸時代に江戸城の表鬼門守護にあたる現在の地に遷座されました。
京都の膏薬の辻子にある神田明神は、将門の首級が晒されたという地にあります。
成田山新勝寺は、将門調伏のための護摩焚きを行ったことに始まります。
本尊は不動明王。
将門調伏のための不動明王は、神護寺の明王堂に安置されていたのだといいます。
東寺の毘沙門堂は、国宝の兜跋毘沙門天像を安置するために建てられた堂(現在は宝物館に安置)。
兜跋毘沙門天像は、平将門の乱の際に都の守護神として羅城門の上層に安置されたものだったのだといいます。