(伊東市:物見塚公園)
1180年(治承4年)に挙兵した源頼朝に敵対し、石橋山では頼朝を敗走させた伊東祐親。
富士川の戦いの際に捕らえられ、1182年(養和2年)2月14日、預けられていた相模国の三浦義澄の屋敷で自害したと伝えられています。
『吾妻鏡』によると、この日、北条政子の懐妊による恩赦で助命されることになりますが、これまでの所業を恥じて自害したのだといいます。
(伊東市)
伊東祐親は、伊豆国に流されてきた源頼朝の監視役を務めた武将。
頼朝と娘の八重姫が結ばれ、男児を授かったことを知ると、その子を殺し、頼朝をも討とうとしたのだと伝えられています。
『吾妻鏡』には・・・
「1175年(安元元年)、伊東祐親が頼朝を殺そうとし、祐親の次男祐清がそのことを頼朝に教えたため走湯権現に逃れることができた」
と記されています。
祐清は頼朝の乳母比企禅尼の娘を妻としていました。
その祐清も祐親が自害した翌日に死刑となっています。
『吾妻鏡』によると、祐親が自害したことを知った頼朝は、祐清を呼んで、かつて自分を助けてくれたことへの褒美を与えようとしますが、祐清は死を望んだのだといいます。
ただ、『吾妻鏡』には、これとは矛盾する記録もあります。
祐清は、富士川の戦いで父とともに捕えられますが、頼朝が褒美を与えようとすると、「父が捕まっているのに子が褒美をもらうことなどできない」として暇を乞い、平家に味方するために上洛。
その後、北陸道合戦で討死したという記事で、どちらが正しい事なのかは不明です。
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