吉野山(吉野城)は、討幕の挙兵をした護良親王が本拠とした所。
『太平記』によると・・・
1333年(元弘3年)初め、二階堂道蘊率いる幕府軍六万余騎が吉野城へ押し寄せた。
吉野の嶺には白旗・赤旗・錦の旗がはためき、雲か花かと疑うほど。
麓には数千の官軍が、兜冑の星を輝かせ鎧の袖を連ねて、錦繍(錦と刺繡をした織物)を施した生地のようだったのだという。
戦いは、夜昼七日の間続き、親王軍は三百余人が討たれ、幕府軍も八百余人が討たれた。
幕府軍に加わっていた吉野執行の岩菊丸は・・・
吉野城を大手(正面)から攻めたのでは討たればかりなので、地形が険しく敵も防備を手薄にしていると思われる裏手の金峯山の愛染明王宝塔の方から攻め込む作戦をたてると、地理に詳しい150人を選んで夜陰に紛れて金峯山に忍び込ませた。
岩菊丸の読みのとおり、金峯山方面に親王軍の兵は一人もいなかったのだという。
夜が明けると、幕府軍は三方から吉野城を攻め、背後からは岩菊丸の手勢が鬨の声をあげながら攻め下った。
幕府軍は搦め手からも攻め込み、勝手明神の社の前から護良親王が立て籠もる蔵王堂へと迫った。
吉野山で源義経と別れ捕えられた静御前は、勝手神社の社殿の前で舞い、荒法師たちを感嘆させたのだと伝えられている。
蔵王堂は金峯山寺の本堂。
高さ34メートル、四方36メートルで木造の古建築としては、東大寺の大仏殿に次ぐ大きさ。
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逃れられないと覚悟を決めた護良親王は、兵二十余人を前後左右に立て、ひとまず寄せてくる幕府軍を退けると、蔵王堂の大庭で最期の酒宴を始めた。
この時、護良親王の鎧には矢が7本も突き刺さり、頬や二の腕に傷を負い、血が滝のように流れていたが、矢も抜かず、流れる血も拭わず、敷皮の上に立って、大盃を三度飲み干したのだという。
その頃、村上義光は大手の最前線で幕府軍との死闘を展開していたが、大手が危うくなると蔵王堂へと向かった。
鎧には16本もの矢が突き刺さっていたのだという。
護良親王が、落城寸前に四本桜の前で酒宴を催したのだとか・・・
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義光は、死を覚悟して最期の宴を催している護良親王に、自分が身代わりとなって敵を欺いているうちに、城を脱出するように進言。
護良親王の鎧を着た義光は、二の木戸の櫓に上り護良親王を見送ると・・・
「天照太神の御子孫、神武天皇より95代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に滅ぼされ、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」
と大音声で叫び、鎧を脱いで櫓から投げ下ろすと、左の脇腹から右の脇腹まで一文字に掻き切り、腸を掴んで櫓の板に投げつけ、大刀を咥えて、うつ伏せになって最期を遂げたのだという。
二天門跡に建てられた石碑。
護良親王の身代わりとなった村上義光は、この場所で自害したのだという。
自刃した村上義光は、幕府軍による検分で護良親王ではないことがわかると打ち捨てられていたが、哀れと思った里人によって葬られたのだと伝えられている。
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鎌倉宮は護良親王を祀る社。