源頼朝亡き後の鎌倉幕府では、1200年(正治2年)1月20日に梶原景時が滅ぼされ(梶原景時の変)、それから1年後の1201年(正治3年)1月23日には、景時の庇護を受けていた越後国の城長茂が反乱(建仁の乱)を起こすなど内紛が続いていた。
1203年(建仁3年)9月には、比企能員が滅ぼされて二代将軍源頼家が失脚し、三代将軍には源実朝が就任(比企能員の変)。
実朝を補佐する執権として実権を握った北条時政は、10月3日、幕府の動揺に乗じた謀反を鎮圧するため、平賀朝雅を京都守護として上洛させている。
平賀朝雅は、源氏門葉として源頼朝に重用された平賀義信の次男。
母は頼朝の乳母を務めた比企尼の三女。
正室は北条時政と牧の方の娘。
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平家残党の蜂起
『吾妻鏡』によると・・・
1203年(建仁3年)12月、伊勢国守護の山内経俊が夜討ちに遭う。
和田義盛の報告によると首謀者は、伊勢国の員部郡司行綱ということだったが・・・
1204年(元久元年)3月9日、平賀朝雅の伝令が鎌倉に到着し、伊賀国で平維基の子孫らが、伊勢国で平度光の子息らが反乱を起こしたことを報告。
伊賀・伊勢の守護の山内経俊が事情を尋ねるため赴いたが、有無を言わせず戦いを仕掛けられ、無勢の経俊は対抗することができずに逃亡。
伊賀・伊勢の二国を手中にした反乱軍は、東海道の鈴鹿の関と、伊賀越えの八峰山を固め、上洛の道を閉ざしたのだという。
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平賀朝雅が鎮圧
3月23日、京都守護の平賀朝雅が鎮圧を命じられて出陣。
反乱軍が鈴鹿の関を塞いでいたため、美濃国をまわって3月27日に伊勢国へ入った。
作戦を練った後、4月10日に攻め入って、まず富田基度の朝明郡の館を襲撃し、富田基度と松本盛光ら弟を誅殺。
次に、安濃郡の岡貞重とその子息・親族等を撃破。
さらに多気郡の庄田三郎佐房とその子師房を破り、河田刑部大夫を生け捕りにし、六ケ山に砦を造って抵抗していた平盛時とその一族を破った。
伊勢国のあちこちに砦を築いて抵抗していた反乱の首謀者である若菜五郎も誅殺され、反乱は12日に鎮圧された。
4月29日には、伊賀国の残党も追討された。
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平家残党の蜂起
逃亡した山内経俊俊も平賀朝雅とともに戦ったそうだが・・・
伊賀と伊勢の守護職は平賀朝雅に与えられた。
翌1205年(元久2年)閏7月、牧氏の変で北条時政と牧の方が鎌倉を追放されると、平賀朝雅も失脚。
朝雅は閏7月26日、山内経俊の六男に討ち取られている。
9月20日、山内経俊は嘆願書を提出して伊賀・伊勢の守護職復帰を願い出たが許されれず、伊勢国守護には大内惟信を任命されている。
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