伊賀の方は、二代執権北条義時の後妻(継室)。
1224年(貞応3年)6月、義時が亡くなると・・・
謀反を企てたとして北条政子の命により伊豆国流罪となりました(伊賀氏の変)。
『吾妻鏡』には、1224年(貞応3年)12月24日、伊賀の方が危篤となったことが記録されていますが、それから間もなく亡くなったものと考えられます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『北条九代記』によると・・・
伊豆国の北条の地に閉じ込められ、鎌倉に深い恨みを抱きながら亡くなった伊賀の方。
その怨霊が北条政子の御所の女房たちの前に現れて、恐れ驚いた女房たちが死ぬということが度々あったのだといいます。
そして、ついに怨霊は政子の前にも現れます。
政子はそのことを言葉には出しませんでしたが祈祷をしていたそうです。
しかし、間もなく病となり、亡くなったのだとか・・・
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
伊賀氏の変は、北条氏の代替わりによって自らの影響力の低下を恐れた北条政子が、伊賀の方の実家・伊賀氏を潰すためにでっち上げたとする説が有力となっています。
三代執権となった北条泰時も伊賀の方の謀反を否定していて、伊豆の国市の北條寺には泰時が建てた義時と伊賀の方の墓が残されています。
(伊豆の国市・北條寺)
2022年の大河ドラマ
☆ ☆ ☆ ☆ ☆