どこで梟首されたかは『吾妻鏡』には記されていませんが、室町時代の歴史書『鎌倉大草子』によると、追討使となったのは梶原景時と加藤景廉で、義定は甲州市(旧塩山市)の放光寺で自害したといいます。
※その他様々な説があるようです。
安田氏滅亡後の所領は加藤景廉に与えられたといいます。
ただ、実質上は梶原景時の八男景則が治めていたといわれ、これが甲斐国梶原氏のはじまりとなったと伝えられています。
甲斐国梶原氏は現在にも継承され、富士河口湖町には梶原を名乗る世帯が約240あるといいます。
そのため、梶原景時の末裔が集まる河口湖畔には「梶原景時像」が建てられています。
河口湖畔の梶原景時像
参考までに・・・
『吾妻鏡』によると安田義定が梟首される前年11月28日、永福寺の供養のときに義定の子義資は、女官に恋文を投げ入れて首を刎ねられています。
このとき、義資のことを源頼朝に告げ口したのは梶原景時であり、処刑したのは加藤景廉だったということです。
こうしたことに義定は不満を持っていたといいます。
義定が梟首された翌日には、義定の家来5人が名越で処刑されています。
その恩賞として和田義盛が新たな領地を得ているようです。
それがどこなのかわかりませんが・・・。
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~信仰の対象と芸術の源泉~