茅ヶ崎市円蔵にある神明大神宮の辺りに景義の懐嶋館があったといわれています。
神明大神宮 |
大庭景義は、石橋山の戦いで源頼朝に敵対した大庭景親の兄。
大庭氏は、先祖鎌倉権五郎景政が開拓した大庭御厨の下司を務めていた一族です。
(参考:大庭城址とその周辺の散策)
長男の景義は、1156年(保元元年)の保元の乱で、弓の名手源為朝の矢を受け負傷したことから、弟の景親に家督を譲ったものと考えられています。
~為朝と景義~
1156年(保元元年)の保元の乱で景義は、弟景親とともに源義朝について戦いました。
そのとき、源為朝の矢を受け負傷します。
為朝は、「必中必殺」といわれたほどの弓の名手でしたが、何故か両者の馬が後退し、態勢を崩した為朝は、景義を撃ち殺すことができませんでした。
為朝は、「大庭景義ほど運のよい武士はいない」と語ったといいます。
(参考:鎌倉十井:六角ノ井)
懐山館址碑と大庭景義像 |
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、景義は頼朝につき、景親は平氏方につきました。
その後、景親は捕らえられ、片瀬で斬首されています。
(参考:明暗が分かれた大庭兄弟(景義と景親)~石橋山の戦い~)。
また、俣野郷を領していた俣野景久も景義の弟ですが、景久も石橋山の戦いでは景親の軍に入って頼朝に敵対しました。のちに加賀国で討死したと伝えられています。
横浜市戸塚区にある俣野観音堂には、景久ゆかりの観音像が安置されています。
(参考:俣野景久が領した俣野郷の史跡巡り)
懐山館址にある層塔 |
頼朝についた景義は、頼朝が鎌倉に入ると、御所や鶴岡八幡宮の造営に携わり、源平池の造営も奉行しています。
懐嶋館址にある層塔には、景義邸・源平池・和田塚の三ヶ所の土が納められています。
※景義の子景兼は、1213年(建保元年)の和田合戦で、和田義盛に味方して討死しています。
奥州征伐のことが刻まれた碑 |
1189年(文治5年)、頼朝は奥州藤原泰衡を討つため兵を集めますが、朝廷からの勅許がありませんでした。
焦っていた頼朝に景義は、
「軍の事については、将軍の命令を聞くが、天子の詔は聞かない、といわれています。
すでに追討については朝廷に報告してあるのですから、その返事を待つ必要はありません」
と進言したといいます。
頼朝は、この言葉で奥州発向を決意したと伝えられています。
そして、頼朝は景義に褒美として馬を与えます。
この馬を曳いてきた結城朝光は、景義の足の怪我を気遣い、座を立たずして受け取れるよう配慮したといいます。
後に景義は朝光を招き、
「よく気遣ってくれた。恥をかかせないようにしてくれた好意は、値千金」
と礼を言ったといいます。
(参考:奥州征伐・・・奥州藤原氏の滅亡)
・・・・・・・・・・・・・
宝生寺 |
懐嶋館址の北側には、景義の持仏といわれている阿弥陀三尊像を安置する宝生寺があります。
宝生寺の阿弥陀堂 |
銅造阿弥陀三尊像 |
この阿弥陀三尊像は、長野の善光寺の本尊を模して造られたもので、国の重用文化財に指定されています。
年に一度、4月29日に開帳されるということです。